大崎市
旧古川市(〜H18) - 旧玉造郡東大崎村(〜S25)
トップさくらとおしろ宮城県大崎市三丁目城
三丁目城
三丁目城跡(薬王神社)。
三丁目城跡(薬王神社)。
【所在地】 大崎市向三丁目字清水館
【別称】 氏家三州館、古館
【築城年】  
【築城者】 氏家氏か
【城主変遷】 大崎氏[氏家氏]…
【廃城年】  
【現状】 薬王神社、耕作地、宅地
 大崎氏重臣玉造郡岩手沢城主氏家氏の一族の居城であり、城主として氏家三河守(弾正隆継か)、あるいは三河守の子氏家弾正(直継、吉継か)曾孫氏家主水(中里清勝)らの名が見える。なお天文年間(1532-55)氏家三河守直益が三河守弾正隆継に、また天正年間(1573-92)には隆継が弾正吉継(直継)にそれぞれ家督を譲りこの城に隠棲したとも伝えられており、氏家氏にとって重要な拠点の一つであった。

 なお氏家氏の嫡流は吉継の代で途絶えたが後に再興されている。これは吉継の女が富田守実に嫁して守綱を生み、その守綱の女が伊達忠宗の小姓中里清勝に嫁したことで、忠宗の命によって清勝が氏家の名跡を継ぎ氏家主水と改めさせたためである。


 薬王神社の鎮座する標高約20mの丘陵、そしてその西へ延びる台地全体が城跡と推定され、東西約200m、南北約100mの規模を持つ。東側の神社境内地が本丸であり、西の台地は二の丸と考えられているが、現在は耕作地となって確認出来ない。周囲には現在も沢の流れが見え、往時の水濠の名残が感じられる。
トップさくらとおしろ宮城県大崎市新井田城
新井田城
新井田城跡解説板。
新井田城跡解説板。
【所在地】 大崎市古川新田字南構
【別称】 新田城、平城
【築城年】  
【築城者】 新井田氏か
【城主変遷】 大崎氏[新井田氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地
 戦国時代、大崎氏家臣新井田刑部隆景(義景)の居城であった。

 新井田隆景は中新田
上狼塚城主里見紀伊隆成(義成)の子で、天性の美少年であったという。故に主君大崎義隆の寵臣となるが、ともに君寵を競った伊庭野惣八郎との間に次第に確執を生じる様になった。そしてついに天正十四年(1586)、隆景は義隆の身柄を拘束して家中の主流派となり、惣八郎が頼った岩手沢城主氏家氏と対立した。そこで反主流派が更に伊達氏を頼ったことで伊達政宗が介入、大崎氏の衰退を招く一因となった大崎合戦への引き金となった。


 現在は宅地となっており、その一角に解説板が建てられている。館跡は東西120m、南北60mの規模であったとされ、現在も周囲には水堀跡、土塁が確認出来る。
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名生城
名生城跡解説板。
名生城跡解説板。
【所在地】 大崎市古川大崎字名生北館、名生小館ほか
【別称】 御所館、義隆館、名生館官衙遺跡
【築城年】 正平六年(観応二・1351)
【築城者】 斯波(大崎)家兼
【城主変遷】 大崎氏…
【廃城年】 天正十九年(1591)か
【現状】 国指定史跡、耕作地
 大崎五御所の一。室町時代大崎地方に勢力を拡大した、奥州管領、奥州探題大崎氏の居城であった。

 南北朝時代の正平元年(貞和二・1346)、斯波家兼が足利尊氏より奥州探題に任ぜられた。当時の奥羽両国は南北朝争乱、観応の擾乱の影響で大いに混乱しており、尊氏とその弟直義それぞれの派閥に分かれ、ともに奥州管領を称する吉良満家、畠山国詮、石塔義憲らが並立していた。そこで尊氏は、家兼を奥州へと派遣することで勢力の維持、拡大を図ったのである。

 家兼はまず伊達郡
霊山城へ下向して陸奥入国の機会を窺い、3年後ようやく留守氏らの助力を得て師山城へと入城したという。その後さらに移ったのが名生城とされており、その完成は正平六年(観応二・1351)頃と考えられている。家兼は名生城を拠点に次第に諸氏を圧倒、以後大崎氏を称して13代にわたり奥州管領職、後に奥州探題を世襲し、大崎五郡を統治した。なお家兼の次男兼頼は、羽州探題として出羽国最上郡へと移り、山形城を築いて最上氏の祖となった。

 奥州管領職の権威を背景に、領内各所の支城に一族を配して勢力を拡大した大崎氏であったが、戦国時代になると家中の内紛が絶えず、さらに隣国の葛西氏、伊達氏らの侵攻を受けて次第に権威は凋落して行った。13代義隆の代には奥州探題職すら伊達晴宗に奪われるなど力関係は逆転、伊達氏の援助によって家臣の叛乱を抑えるほどにまで弱体化する。そしてついに天正十八年(1590)、豊臣秀吉によって
小田原城征伐不参を理由に所領を没収され、名族大崎氏は滅亡した。

 その後名生城は、大崎、葛西氏旧臣らによって引き起こされた大崎葛西一揆の拠点の一つとなるも、奥州仕置軍の蒲生氏郷らによって攻め落とされ廃城となった。


 JR陸羽東線東大崎駅の北から浄泉寺付近が城跡で、地名、伝承から大館、小館、内館、北館、二の構、三の構、軍議評定所丸と呼ばれる7つの郭が認められる。本丸と推定される大館を中心に、南北約1km、東西約500mの規模を持った広大な連郭式平城であるが、大部分が耕作地となり、また陸羽東線などによって破壊されている。
 また大館、小館の周辺からは8世紀初頭の瓦などが大量に発掘され、前者からは掘建柱建造物跡や一本柱列跡などが検出されている。この遺構は古代城柵もしくは官衙跡と推定されており、名生館官衙遺跡と呼ばれ、丹取郡衙、丹取(玉造)軍団、玉造柵、玉造郡衙跡と推定されている。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)

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