伊達市
旧伊達郡梁川町(〜H18)
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大枝城
大枝城跡遠望。
大枝城跡遠望。
【所在地】 伊達市梁川町東大枝字館
【別称】 袖ヶ崎城
【築城年】 応永元年(1394)頃か
【築城者】 伊達(大枝)宗行か
【城主変遷】 伊達氏[大枝氏]…
【廃城年】 天正十八年(1590)
【現状】 山林、耕作地
 築城時期は明らかでないが、伊達氏8代宗遠三男、孫三郎宗行が応永元年(1394)頃伊達郡大枝村に住し、大枝氏を称して居城したと伝わっている。しかし平時の居館としては住吉館が想定されており、この大枝城は戦時における軍事交通上の拠点を押さえる砦的なものであったものと考えられている。

 天文十一年(1542)より始まった伊達氏の内訌天文の乱において、大枝稙景は伊達晴宗に与して多くの所領を加恩されている。しかし天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で伊達政宗は伊達郡を没収され、その際に大枝城は廃城になったとみられ、大枝氏6代宗直は翌年の政宗の岩出山城移住に従い志田郡大倉へと移った。大枝氏はいつの頃からか大條(大条)氏と改め、元和二年(1616)8代長三郎宗綱が2千石を以て亘理郡坂元要害を拝領、以後坂元邑主として17代孫三郎の時に明治維新を迎えている。なお孫三郎は後に伊達姓に復し、伊達宗亮を称したという。

 廃城となった大枝城は以後城郭として使用されることはなかった様であるが、慶長五年(1600)関ヶ原合戦の際、西軍に通じた会津若松城主上杉景勝を牽制するため伊達政宗が福島城へと侵攻し、梁川城の上杉勢に備えて片倉景綱の軍勢を大枝城周辺に配している。また近世の天領時代には、三の丸に近郷の御城米の蔵場が置かれている。

 東、南、西側3方を急崖に囲まれた比高約34mの丘陵上に築かれ、本丸、二の丸、三の丸の3つの郭から成っている。本丸は丘陵南側の山頂部に置かれ、二の丸とは土塁によって画されている。二の丸は本丸北西、三の丸は本丸、二の丸の北東に置かれ、それぞれ周囲を土塁、空堀によって囲まれていたが、三の丸東側の土塁は崩されている。かつては城跡西側を山田川が流れ、南側は阿武隈川に囲まれており、地形を巧みに利用した要害の地であった。

 小高い丘陵上の畑地に、“史跡大枝城跡”の標柱が建てられています…が、実はもうだいぶ前に訪問したきりでよく憶えていないんですよねー。旧伊達郡内には見たいお城もたくさんあるので、再度訪問したいと思っています。
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住吉館
住吉館跡(徳本寺)。
住吉館跡(徳本寺)。
【所在地】 伊達市梁川町東大枝字住吉
【別称】  
【築城年】 応永元年(1394)頃か
【築城者】 伊達(大枝)宗行か
【城主変遷】 伊達氏[大枝氏(、酒井氏)]…
【廃城年】 天正十八年(1590)か
【現状】 徳本寺
 築館年代は不明であり、館主は酒井大学と伝えられている。しかし中世伊達郡内の館主は伊達氏家臣団を構成しており、酒井姓を称する家臣は伊具郡西根豊室のさかい又四郎、置賜郡下長井庄に所在した洲島城のさかいかも左衛門という小地頭が見られるのみで、伊達郡との繋がりはないと見られている。従って応永元年(1394)頃伊達郡大枝村に住し、以後大枝氏を称した伊達氏8代宗遠の三男孫三郎宗行が築き、大枝城の根小屋、もしくは隠居館として居館したものと考えられている。

 現在は大枝氏の菩提寺であった徳本寺が移されており、その境内地が館跡であった。東西110m、南北134mの館跡は、周囲の土塁、堀跡の様子をよく残しており、伊達郡内の平地館としては最も整った姿を今も伝えている。
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梁川城
梁川城跡庭園(梁川小学校)。
梁川城跡庭園(旧梁川小学校)。
【所在地】 伊達市梁川町鶴ヶ岡
【別称】 鶴岡城、鶴ヶ城、梁川陣屋(、粟野大館)
【築城年】 文治五年(1189)
【築城者】 (伊達朝宗)、伊達氏、蒲生氏、上杉氏ら
【城主変遷】 伊達氏…蒲生氏[蒲生氏](1590-98)−上杉氏[須田氏](1598-1664)…天領…本多氏…松平氏(4代・1683-1730)…天領、諸藩領…松前氏(1代・1807-1821)−天領(1821-55)−松前氏(1855-1871)
【廃城年】 寛文四年(1664)
【現状】 旧梁川小学校、梁川中学校、梁川高等学校、宅地など
 文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げた伊達氏初代朝宗が、源頼朝より伊達郡を賜った際に築城し、以後累代の居城になったとされているが確証は乏しい。また伊達氏3代義広が粟野に大館を築いて移るとする記録があり、この粟野大館が梁川城を指しているのではないかとする説もある。しかし梁川城西方約2kmに粟野大館と呼ばれる大規模な平地館があり、この時代の城館は平地館が主流であるため、義広が築いたのはこの館であるとみられている。その後4代政依は梁川城に居城した痕跡は無く、5代宗綱、6代基宗の事跡は明らかでない。しかし南北朝時代に南朝方の忠臣として活躍した7代行朝、行朝の死去後危機に陥った伊達氏の勢力回復を図った8代宗遠の頃は、梁川城を本拠としていた可能性が高く、伊達家中興の祖といわれる9代大膳大夫政宗はこの城で生まれたともいわれている。この頃の梁川城は、本丸西側の平地に付加された二の丸、三の丸を除いた丘陵上面のみに構築されていたと考えられており、南北朝時代に相応しい形態であったとみられる。

 応永二十年(1413)大佛城に拠って鎌倉公方足利持氏に背いた伊達松犬丸は、大佛城落城後に11代持宗を称して梁川城へと移り、応永三十三年(1428)に梁川八幡宮を造営、嘉吉元年(1441)に輪王寺を創建している。この頃梁川城は伊達氏の居城として一段と整備、拡張が進んだと考えられている。その後12代成宗は文明十五年(1483)上洛し、室町幕府将軍足利義政に大量の進物を贈り、伊達氏の陸奥国守護職への就任運動を展開、大永三年(1523)これが実を結んで14代稙宗は前例のない陸奥国守護職に補任されている。これによって梁川城は守護大名の府城としての格式が与えられ、大いに改修されたものとみられるが、時代は戦国時代へと突入しており、稙宗はより天険を頼んで天文元年(1532)桑折西山城へと本拠を移した。これによって梁川城は伊達氏の本拠としての役割を終えたものの、領内の有力な支城となり、稙宗8男左衛門宗清入道鉄斎が梁川氏を称して城主となっている。

 天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が去ると、伊達郡は新たに会津黒川城主となった蒲生氏郷の所領となり、梁川城へは蒲生喜内頼郷が城代となった。代わって慶長三年(1598)上杉景勝が若松城主となると、景勝は須田大炊助長義が城代に任じた。この蒲生、上杉氏の支城期に梁川城は近世城郭として大きく改修され、先に述べた二の丸、三の丸の構築が行われている。

 寛文四年(1664)上杉氏の減封によってその支配を離れると、以後梁川城は廃城となるも、天領や近隣諸大名、そして梁川藩の陣屋として変遷を辿った。初め天領となった後、福島藩主本多氏の所領となり、天和三年(1683)には尾張藩2代藩主徳川光友の3男、松平義昌が3万石を以て梁川藩を立藩、享保十四年(1729)義真の代で無嗣改易となるも、同年本家尾張藩3代藩主綱誠の19男松平通春が跡を継ぎ再興されている。しかし翌年、通春が徳川宗春を称して尾張藩7代藩主を相続したため廃藩となった。その後さらに天領、白河藩領、天領、平藩領、天領、平藩領、天領と推移し、文化四年(1807)には江戸幕府の蝦夷地全島召し上げに伴い再度梁川藩が立藩され、松前氏が移封された。文政四年(1821)蝦夷地が松前氏に返還されると再び天領となるが、安政二年(1855)一部を除いて再度蝦夷地の召し上げが行われ、再度松前藩領となって明治維新を迎え、陣屋は廃された。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)

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