福島市
旧福島市 |
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五十目館 |
五十目館跡土塁。 |
【所在地】 |
福島市舘ノ内
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【別称】 |
五十辺館 |
【築城年】 |
平安時代 |
【築城者】 |
伊賀良目高重 |
【城主変遷】 |
佐藤氏[伊賀良目氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、市街地 |
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平安時代中〜末期頃、信夫庄司佐藤氏一族伊賀良目(五十目)七郎高重が構築したとされる。
伊賀良目高重は佐藤元治の叔父であり、文治五年(1189)の奥州合戦に於いては、石那坂で一族とともに源頼朝の軍勢と戦っている。その後伊賀良目氏は応永二十三年(1416)から大永元年(1521)まで尾形氏を称したとされ、高重の子孫がその後も五十目館を本拠としていたと考えられているが、中世以降は不明な点が多く明らかでない。
館跡は東辺120m、西辺90m、南辺150m、北辺132mの規模を持つ不正形の単郭方形館と推測されている。現在も周囲には館前、館内のほか、北東には矢倉下の地名が残り、東辺に櫓があったことが推察される。北辺には土塁、空堀が残るが、大半が宅地化されており遺構の残存状態は良くない。
場所は結構前から判っていたので、福島に行く際は何度か行こう行こうと考えていた館跡です。住宅地を何度もぐるぐる廻り、付近住民の方にも訊きながら探しましたがなかなか見つからず…。市街地の平地方形館なんてそんなもんですね〜。何回かぐるぐるした後、ふと曲がった先に何やら土盛りを発見、個人宅の北側に残った土塁でした。お家の方に撮影許可を頂き、ひとしきり撮影させて頂きましたが、やはり不審な目は変わりませんでした(-_-; |
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鎌田城 |
鎌田城跡(鎌秀院)。 |
【所在地】 |
福島市鎌田古舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
弘長二年(1262) |
【築城者】 |
鎌田信次 |
【城主変遷】 |
鎌田氏…伊達氏[鎌田氏]… |
【廃城年】 |
天正十八年(1590) |
【現状】 |
鎌秀院 |
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弘長二年(1262)大和国より移住した宇野信次(信治)が築城し、以後鎌田氏を称して代々居城した。
鎌田氏は戦国時代には伊達氏家臣となり、伊達氏14代稙宗と嫡男晴宗が争った天文の乱では、嫡流と考えられている鎌田四郎兵衛某と出羽国長井庄にあった庶流の鎌田与総衛門が晴宗に与して加恩され、陸奥国名取郡にあった鎌田助六は稙宗に与して失脚したという。またこの頃四郎兵衛は杉目城代を兼ねたともいわれる。
鎌田氏は慶長年間(1596-1615)に和泉守源親行、兵部尉源名の名が伝わっているが、天正十八年(1590)四郎兵衛の子備前某が伊達政宗の岩出山城移住に従って鎌田郷を去っており、以後鎌田城は廃城になったと考えられている。
現在城跡の中央に建てられている鎌秀院は、文永年間(1264-75)に宇野信治が創建したとされており、建治元年(1275)に城中で亡くなった信次の法名(鎌秀院殿源性信大居士)が寺名となっている。後世、本丸跡と伝えられている現在地に再建された。
現在も西、南、北側に土塁が残っており、耳取川が自然の外堀となっている。東西六十三間、南北七十七間の規模であったという。 |
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椿館 |
椿館跡展望台より福島城跡(福島県庁)方面を望む。 |
【所在地】 |
福島市小倉寺椿舘
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【別称】 |
椿山館 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
岩城氏…持地氏…北畠氏…伊達氏 |
【廃城年】 |
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【現状】 |
弁天山公園、弁天山配水池、蚕祖神社 |
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古くは岩城判官政氏、さらに持地遠江守の居館であったとされる。また南北朝期には南朝方の北畠顕国が居城し、常陸国関城攻略時に奮戦し、そのため顕国没後六百年祭にあたる昭和十三年、“顕国卿遺蹟”の碑が建立されている。その後伊達安房も居住したと伝わっており、室町〜戦国時代にも使用されたものであろう。
阿武隈川、荒川の分岐点東側の椿山、弁天山に所在し、北西約1kmには福島城(現福島県庁)があります。丘陵の西端が弁天山、配水池を挟んで東側の頂上部が椿館(椿山)と呼ばれています。椿館、その東側に位置する蚕祖神社、そして弁天山の三箇所が主要な郭となっており、それぞれの平場に数段の腰郭が見られます。なお“顕国卿碑”は椿館に建てられています。
ちなみに岩城判官政氏は、森鴎外の小説「山椒大夫」の安寿と厨子王の父政道の父だそうです…がわたしは恥ずかしながら読んでおりません…。 |
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福島城 |
福島城跡(板倉神社)。 |
【所在地】 |
福島市杉妻町
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【別称】 |
杉目城、杉妻城、大佛城 |
【築城年】 |
治承年間(1187-91) |
【築城者】 |
杉目行信 |
【城主変遷】 |
杉目氏…伊達氏…蒲生氏[木村氏](1592-95)−上杉氏[水原氏、本庄氏](1598-1664)−本多氏(1代・1679-82)−堀田氏(2代・1686-1700)−板倉氏(12代・1702-1869) |
【廃城年】 |
明治十一年(1878) |
【現状】 |
福島県庁、紅葉山公園、板倉神社、市街地 |
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古くは大佛城、杉目城と称された平地方形館で、治承年間(1187-91)杉目(杉妻)太郎行信が築城、居住したとされるが確証はない。
室町時代には伊達氏の勢力化となり、応永二十年(1413)伊達松犬丸(後の11代持宗)が懸田城主懸田定勝と結んで鎌倉公方足利持氏に背き、この城に籠城している。この大佛城合戦の際には二本松城主畠山国詮、結城白川満朝らによって攻められ落城、松犬丸は会津へと逃れているが、後に勢力を回復して梁川城を居城とし、その支城として大佛城を復興したという。
天文十一年(1542)、伊達氏14代稙宗と嫡男晴宗の間に起こった天文の乱は、同十七年(1548)には収束した。その結果15代を継いだ晴宗は、居城を伊達郡西山城より出羽国置賜郡米沢城へと移し、家中諸士には知行判物を与えた。それによると、天文二十二年(1553)杉目城と改称されていたこの城には牧野相模が在城していたと推定されている。
永禄七年(1564)頃、晴宗は家督を16代輝宗に譲り杉目城へ隠退、天正五年(1577)に死去し、その後は晴宗末子で最後の城主となった杉目直宗が在城した。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置で岩代国内の伊達氏の所領は全て没収となり、代わって会津黒川城主となった蒲生氏郷に与えられた。氏郷は客将木村吉清に信夫郡5万石を与えて大森城主としたが、吉清は文禄元年(1592)に大森城を廃して町屋、寺社などを杉目城下へ移し、福島城と改めて本拠地とした。しかし同四年に吉清が死去したため、秀吉に命ぜられた浅野長政によって破却されている。
慶長三年(1598)蒲生秀行が下野国宇都宮城へ移封となると、代わって越後国春日山城より上杉景勝が会津領主となった。景勝は領内の諸城を改修、整備し、福島城には城代として水原親憲、本庄繁長、本庄政長らが在城した。
関ヶ原合戦後、上杉景勝は減封の上米沢城へと移されたが、元和元年(1615)江戸幕府によって一国一城令が出された後も、仙道を押さえる要地として福島城は破却の対象とならなかった。しかし寛文四年(1664)、米沢4代藩主綱勝の急死による継嗣問題から上杉氏は禄高を削られ、信夫郡が幕府天領となるに及んで福島城は再び破却された。
以後信夫、安達郡は幕領、藩領と幾度か変遷し、延宝七年(1679)に大和国郡山城より本多忠国15万石、貞享三年(1686)出羽国山形城より堀田正仲10万石を経て、元禄十五年(1702)信濃国坂木藩主板倉重種の子重寛が3万石で入封し、明治維新まで板倉氏の居城となった。
現在見られる福島城の普請は堀田氏時代より始まったとされるが、本格的に整備されたのは板倉氏が入城してからとされる。それ以前、本多氏は伊達氏の居城であった西山城(西館)に普請を計画したと伝えられるが、本多氏は入部から3年で播磨国姫路城へと転封となったために中止になったという。
慶応四年(1868)戊辰戦争で西軍に降伏、翌明治二年(1869)に板倉氏が三河国重原へと移って福島藩は消滅した。福島城は明治六年(1873)の陸軍省による廃城令を免れ存城となったが、同十一年(1878)白河城に代わってついに廃城となった。
現在の福島県庁周辺が城跡ですが、阿武隈川の浸食もあり土塁の一部が現存している程度でした。しかし最近の発掘調査で堀跡などが検出されており、往時の姿がだいぶ見えて来た様ですが…未だに現地説明会に参加出来ず実物を拝んではいません(>_<。
わたしが福島県民となった頃には、市民にも大して注目…どころか知られてすらいなかった県庁=福島城でしたが、現在は城跡碑なども設置されて認知されているんでしょうかねー。板倉氏入封三百年の年には、福島市も市民に対して福島城が存在していたということに目を向けさせようとしていた様ですが、その努力は実ったのでしょうか?
ちなみに、大佛城の読みは“だいぶつじょう”です。念のため〜。 |
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南沢又城 |
南沢又城跡土塁。 |
【所在地】 |
福島市南沢又西原
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【別称】 |
南館 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
伊達氏[湯沢氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地 |
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天正年間(1573-92)大森城主伊達成実家臣、湯沢善兵衛の居館。東西七十間、南北八十間の規模で、土塁、空堀跡が確認出来る。
現在は個人の敷地となっている様で、標柱の建っている場所から15mほどの場所に土塁、空堀が残っています。周囲は宅地であり、また訪問時は積雪もあったのでさすがに見て歩くことは出来ませんでした。
なおこの土塁のある場所は西原という地名ですが、東側には南館という地名が残っています。 |
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本内館 |
本内館跡(小楯八幡神社)。 |
【所在地】 |
福島市本内南古舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
永正年間(1046-53) |
【築城者】 |
源頼義か |
【城主変遷】 |
本内氏 |
【廃城年】 |
慶長五年(1600)か |
【現状】 |
小楯八幡神社、正福寺、宅地 |
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永正年間(1046-53)、源頼義が陸奥国の豪族安倍頼時、貞任父子を攻めた際に築かれたとされるが確証はない。
室町時代には本内氏が館主となり、本内相模守が天文の乱において伊達稙宗に与したとされる。天正年間(1573-92)には本内駿河なる人物が居住したが、慶長五年(1600)伊達政宗によって攻略され、仙台へ移ったとする伝承がある。
東西二町余、南北八町余の規模とされ、現在の小楯八幡神社、正福寺境内から南北に150mほど延ばした範囲が館跡とされています。遺構は八幡神社境内に土塁、堀、正福寺墓地脇に土塁が遺り、周囲の道路は館を取り巻いた堀跡と思われます。しかし八幡神社の所在する字南古舘と正福寺の所在する字館は構築年代が異なると考えられており、館跡北側の南古舘(ややこしい)は、土塁、堀の規模から鎌倉時代の構築、鉄砲が普及した戦国期には堀の拡幅、土塁強化の必要性から古舘を破棄、新たに本内館を構築したと考えられています。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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