福島市
旧信夫郡笹谷村(〜S30)
トップさくらとおしろ福島県福島市笹谷城
笹谷城
笹谷城跡付近に所在する阿部薩摩守墓所。
笹谷城跡付近に所在する阿部薩摩守墓所。
【所在地】 福島市笹谷字道本林
【別称】  
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】  
【廃城年】  
【現状】 墓地、果樹園
 「日本城郭大系」に土塁、空堀が残るとあるが、「福島県の中世城館跡」にはほとんど何も記載がない。

 まほろん“文化財データベース”の位置情報を参考に訪問しましたが、その場所は現在墓地となっています。その墓地には写真の阿部薩摩守の墓があり、標柱には上杉氏家臣で越後国村上の産、周辺の開墾に尽くした武士と記載があります。
 埒があかないときはやっぱり地元の方へ、ということで墓地の隣にあるお店のお母さんにお訊きしたら、「笹谷城…?聞いたことないね〜。裏のお墓には阿部薩摩守さんのお墓があるけど…」との事。城館遺構と思われるものも特にないというお話でした。
 積雪のため墓地奥の果樹園?までは侵入出来ませんでしたので、遺構があればその辺りでしょうか?もしくは墓地から道路を隔てた南側(そちらも果樹園)が一段低くなっており、そちらに痕跡が見られるかも…?
 しかし「城郭大系」、“文化財データベース”に記載されている住所は、訪問場所とはずれているようなので、機会があれば資料を揃えて再訪したいです。
トップさくらとおしろ福島県福島市仁井町館
仁井町館
仁井町館跡。
仁井町館跡。
【所在地】 福島市笹谷字仁井町
【別称】 仁井田館
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】  
【廃城年】  
【現状】 宅地
 築城年代、築城者は不明、字名を用いて仁井町館といわれる。

 個人宅の脇の林に、標柱が反対を向いて木にくくりつけられています(笑)。林の奥に空堀、土塁が確認出来たので、そのお宅にお伺いしましたがあいにく留守でした。標柱に堀の長さ25m、幅7mとありましたが、もちろん詳しく見て回る事も出来ず、無礼を承知でちょっとだけ写真を撮り退散しました。
 そのお宅の前ではねこが2匹、怪訝そうな顔でこちらを見ながら歩いてました。そりゃ怪訝なのは間違いないよな。
福島市
旧信夫郡信夫村(〜S41)
トップさくらとおしろ福島県福島市朝日館
朝日館
朝日館跡碑。
朝日館跡碑。
【所在地】 福島市上鳥渡字山王
【別称】  
【築城年】 正治年間(1099-1201)
【築城者】 佐藤小太郎か
【城主変遷】 佐藤氏−二階堂氏−伊達氏…
【廃城年】 応永二十年(1314)以降
【現状】 朝日館公園、日吉神社
 正治年間(1199-1201)大鳥城主佐藤基治一族、信夫庄司小太郎(小治郎?)が居住したとされる。
 文治五年(1189)源頼朝の奥州合戦における石那坂の戦いで信夫小太郎は討死し、その後仁治元年(1240)鎌倉幕府評定衆、二階堂基行が息子行氏にこの地を分け与えた。
 二階堂氏は、南北朝時代には北朝側に立ち、霊山城攻撃などで功を挙げるが、応永二十年(1314)勢力を拡大しつつあった伊達持宗によって当地を奪われた。伊達領となった後のこの城の消息は不明である。

 現在は水道か何かの施設になっていたはず…?しのぶ台ニュータウン東側に位置しており、362号県道からちょっと入ったところに朝日館公園があります(特に城跡として整備されてはいませんが)。なお東側1kmほどの位置に、中世には当地の中心であった大森城が所在します。
トップさくらとおしろ福島県福島市内町陣屋
内町陣屋
内町陣屋跡付近。
内町陣屋跡付近。
【所在地】 福島市大森北内町、南内町か
【別称】  
【築城年】 延享四年(1747)
【築城者】 久世氏
【城主変遷】 久世氏(1747-1769)
【廃城年】 明和六年(1769)
【現状】 住宅地、信夫中学校か
 延享四年(1747)に置かれた、下総国関宿藩久世氏の出張陣屋。

 三河譜代の徳川氏旗本である久世氏は、慶安元年(1648)大和守広之が加増により1万石の所領を得て大名に列し(居所不明)、以後江戸幕府の要職を歴任、寛文三年(1663)老中に任ぜられた後加増され、同九年(1669)には5万石を以て関宿藩主に任ぜられた。天和三年(1683)広之の子重之が備中国庭瀬藩へ移封となるが、宝永二年(1705)再び関宿藩主として封ぜられた。
 関宿藩再封後、久世氏は最大で6万8千石の知行を得るが、知行地は下総国ほか陸奥、常陸、下野、和泉国などに分散していた。そして延享四年(1747)重之の子暉之の頃、陸奥国信夫郡9箇村8600石余の分領支配のために設置されたのが内町陣屋であった。陣屋は内町村の常永寺の屋敷に置かれたとされるが、明和六年(1769)暉之の子広明が大坂城代に任ぜられると、関宿城は佐倉藩預かりとして収められ、封地も上方へ移されたことにより当地は幕府天領となり陣屋は廃された。
 なお、広明は大坂城代任期終了後には再度関宿城を与えられ、当地もまた知行地として久世氏に与えられているが、その際には隣村の前田村に前田陣屋が設置されている。


 大森城の東麓に信夫中学校が所在していますが、その校地全域が字南内町、北に隣接する住宅地が字北内町となっています。地図を見ても陣屋が置かれたとされる常永寺という寺はないので、大体その辺りに置かれたものかな〜と思い訪問しましたが、特に痕跡を感じられるものはなし…。
 北内町の北側、字馬場に福島市信夫学習センターがあったのでお話を伺ったところ、後に設置された前田陣屋については伝承が残っている様ですが、内町陣屋に関しては全く手掛かりがなく、ひょっとしたら廃寺になっているなんて情報も得られるかと思いましたが、常永寺という寺についても不明でした。しかし旧内町村の範囲は、城山を含むその東麓一帯(東端は148号県道付近)だった様なので、北内町、南内町内にあったものとは限らないのかも知れません。
 なお、お話を伺った信夫学習センター入口前にある松の木は、前田陣屋に植えられていたものを移植したものだそうです。
トップさくらとおしろ福島県福島市大森城
大森城
大森城跡碑。
大森城跡碑。
【所在地】 福島市大森字椿館
【別称】 臥牛城、白鳥城、鷹峰城
【築城年】 鎌倉中期、南北朝期、天文十一年(1542)など諸説
【築城者】 佐藤氏、伊達晴宗など
【城主変遷】 (佐藤氏、二階堂氏など)…伊達氏[伊達氏、片倉氏](1542-90)−蒲生氏[木村氏](1590-92)−廃城−上杉氏[栗田氏、芋川氏](1598-1664)
【廃城年】 寛文四年(1664)
【現状】 大森城山公園
 天文十一年(1583)伊達氏15代晴宗によって築かれたとするが、それ以前に信夫庄司佐藤元治子孫、信夫十郎左衛門盛衡の居館があったものと考えられている。盛衡は信夫十郎左衛門入道性妙清親と同一であるとされており、信達平野の有力武将として南北朝期の延元三年(建武五・1338)、北朝方の大将石塔義房より村山郡渋江城攻めの参加を命ぜられている。その後は二階堂氏が居住していたともいわれる。

 戦国時代には伊達氏の勢力下となり、初め伊達実元(伊達氏14代稙宗三男)が在城した。しかし天文十一年(1542)、実元の越後国上杉氏への入嗣問題に端を発した父稙宗と兄晴宗の内訌が起こる。周辺諸大名を巻き込み、6年に及んだ天文の乱である。この戦いで晴宗が稙宗を西山城へ幽閉(後脱出)、拠点としたのに対し、実元は稙宗に従ったため大森城は稙宗方の拠点となった。乱は最終的に晴宗方の優勢となり、室町幕府将軍足利義輝の仲介もあって同十七年に終結した。結果稙宗は隠居、晴宗が15代を継ぎ、居城を置賜郡米沢城へと移した。大森城は会津黒川城主蘆名氏、二本松城主畠山氏らに対する仙道(福島県中通地方)防衛の拠点として重要度を増し、そのまま実元が城主に任ぜられた。その後天正十三年(1584)、実元は嫡男成実に家督を譲って八丁目城へ隠居、二年後死去した。
 天正十四年(1585)伊達氏17代政宗がこの城を拠点に畠山氏を攻略すると、功のあった成実はその居城二本松城を与えられ、代わって大森城は重臣片倉小十郎景綱に与えられた。同十七年の摺上原合戦においても大森城は拠点となっている。
 天正十八年(1590)小田原城征伐で北条氏を屈服させた豊臣秀吉は奥州仕置を行い、黒川城に居を移していた政宗から会津、岩瀬、安積郡を没収、更に翌年信夫、伊達、置賜郡を没収して蒲生氏郷に与えた。黒川城に入った氏郷は、木村吉清に信達5万石を与えて大森城代に任じた。吉清は文禄元年(1592、翌年の説もある)に町屋、寺社を杉目城下へ移し、地名を福島と改めて大森城を廃した。

 慶長三年(1598)蒲生氏が宇都宮城へ移封となり、若松城に上杉景勝が入城すると、景勝は栗田刑部少輔国時を大森城代として派遣、大森城は再興された。同六年に国時が徳川氏と通じて城下から脱出を図り討死にすると、代わって白河小峰城より芋川正親が入城、4代にわたって城代を務めた。しかし寛文四年(1664)藩主綱勝の急死による継嗣問題から米沢藩は石高を削られ、信達地方は江戸幕府の天領となる。そのため芋川氏は米沢城下へ家老職として移住、大森城は再び廃城となった。
トップさくらとおしろ福島県福島市小島田館
小島田館
小島田館跡南東隅の八幡神社。
小島田館跡南東隅の八幡神社。
【所在地】 福島市大森字古舘
【別称】 古館
【築城年】 正治年間(1099-1201)
【築城者】 信夫小治郎
【城主変遷】 佐藤氏[信夫氏]…
【廃城年】 文治五年(1189)か
【現状】 宅地、耕作地、八幡神社
 大鳥城を本拠とした信夫庄司佐藤氏の一族、信夫小治郎が在館したと伝えられる平地館。信夫氏は文治五年(1189)の奥州合戦で一族とともに討死し滅んだとされる。以後この館も大鳥城などとともに荒廃したものであろう。

 東西八十間、南北百二十間の規模を持ち、周囲を堀が巡っていたとされますが、明治時代初めにはすでに水田になっていた様です。遺構は見られない様ですが、館跡南東隅に八幡神社が建てられています。大根を持って歩いていたばあちゃんに何か知らないかお訊きしたところ、「むか〜しさむらいの館があって、城山(南方に望む大森城)とかとあわせてなんかあったっては聞いたことあるけど、良くはわがんないね〜」とおっしゃってました。なお八幡神社は昔からこの集落で大切にされて来た、との事でした。
 またそのばあちゃんに聞いたのですが、昔は村の中央を古道が通じていて、今でもその道標の碑が点々と遺されているそうです。ずっと遠くの山王神社(だったかな?)に通じる参拝路のようで、八幡神社の南西にその碑が建てられています。
トップさくらとおしろ福島県福島市前田陣屋
前田陣屋
前田陣屋跡付近。
前田陣屋跡付近。
【所在地】 福島市大森本町裏
【別称】  
【築城年】 天明七年(1787)
【築城者】 久世氏
【城主変遷】 久世氏(1787-1862)
【廃城年】 文久二年(1862)か
【現状】 住宅地、大森交番
 天明七年(1787)に置かれた、下総国関宿藩久世氏の出張陣屋。

 延享四年(1747)に内町陣屋を設置して陸奥国信夫郡内9箇村を支配していた関宿藩主久世氏だったが、明和六年(1769)藩主広明が大坂城代に任ぜられたことに伴い所領を上方へ移されたため、当地は幕府天領となり陣屋は廃された。しかし広明の任期が安永三年(1774)に終了した後、当地は再び関宿城主に復帰した久世氏の所領として与えられ、天明七年(1787)に先の9箇村から1箇村を除く計8箇村支配の陣屋として設置されたのが前田陣屋であった。
 なお久世氏がいつまで信夫郡内8箇村を領知していたかは不明だが、万延元年(1860)久世広周が老中に任ぜられた際に最大の6万8千石を領知した後、文久二年(1862)失脚によって計2万石の減封されており、その頃に収公されたと思われる。


 明確な陣屋の位置は不明ですが、現在の福島県警大森交番東側一帯に置かれていたと伝わっています。
 現地で近所のじーちゃん、交番にいらっしゃった若いイケメンお巡りさんに話を伺ったところ、昔は現在の交番の南東に中学校があったとか、交番はやや西側にあった?といった情報を頂きました。警察官の方は、会津地方出身で20代前半(なのであまり良く判らない)とのことでしたが、以前は公民館的な施設があった様だ、なんてお話でした。
 その後福島市信夫学習センターの職員の方にお話を伺いましたが、福島市の信夫支所、公民館があったのは間違いない様で、学習センターが建てられた際、陣屋(支所)前に植えられていた松を敷地内に移植したという情報も得られました。
 学習センター入口前に大森地区の観光案内地図があり、それには前田陣屋の記載もあるのだから、もうちょっと突っ込んでくれれば良いのになー。
福島市
旧信夫郡松川町(〜S41)
トップさくらとおしろ福島県福島市愛宕館
愛宕館
愛宕館跡付近。
愛宕館跡付近。
【所在地】 福島市松川町水原字愛宕原
【別称】  
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】 伊達氏[加藤氏]…
【廃城年】  
【現状】 山林
 築城年、築城者ともに不明。永正年間(1504-21)伊達氏家臣の加藤金兵衛が居住していたとされる。愛宕館は近接する極楽寺館とともに天文の乱(1542-48)の際に機能し、館主加藤金兵衛もこの乱に関係した武士と考えられている。

 「福島県の中世城館跡」に記述があり行ってみましたが、夕暮時、また登城口が見当たらずに断念しました。同書にある図を見るにあたり、館跡南側の集落辺りから上れそうではありますが…。比高はそれほどでもなく、頂部周辺には空堀が巡らされた主郭、土塁、堀切などが見られる様ですので、次回は怪しまれない時間帯に行ってみようと思います(笑)。
トップさくらとおしろ福島県福島市土合館
土合館
土合館跡遠望。
土合館跡遠望。
【所在地】 福島市松川町字土合舘
【別称】 東館、隠居館
【築城年】 天文十一年(1542)か
【築城者】 清野備前守か
【城主変遷】 伊達氏[清野氏、堀越氏]−畠山氏[堀越氏]−伊達氏[伊達氏]
【廃城年】 天正十九年(1591)
【現状】 土合舘公園、駒形稲荷神社
 天文十一年(1542)八丁目城主清野遠江守の父備前守が築城したとされるが、鎌倉時代からこの土合山は奥州街道の要衝であったため、対の城である八丁目城と同様信夫、安達郡領主の重要な拠点であったという。

 天文十一年(1542)に始まった天文の乱において、清野遠江守は伊達氏14代稙宗を八丁目城に迎え、父備前守は土合山に隠居館を築いて晴宗勢との戦いに備えた。同17年に乱が終結すると、清野氏に次いで八丁目城主となっていた堀越能登守宗範が二本松城主畠山氏に内通、この土合舘も当然畠山氏の勢力下となった。しかし八丁目城は天正二年(1574)大森城主伊達実元(稙宗三男、晴宗弟)により奪回され、それ以降は実元及びその嫡男で後に二本松城主となった成実によって守備兵が置かれていた様である。

 天正十八年(1589)伊達氏17代政宗は、豊臣秀吉の奥州仕置により会津、岩瀬、安積郡を没収され、さらに翌年には伊達、信夫、安達郡を没収された。この仕置によって成実も二本松城を退去し、八丁目城とともにこの城も廃城となった。

 丘陵頂部の駒形稲荷神社を主郭とし、南北の尾根上に平場が続いています。規模は東西約130m、南北約330mと推定されており、現在は土合舘公園として整備されています。それほど城館跡としての色を残した公園ではありませんが、遺構の保存状態は良好な様です。
 北東1キロほどに八丁目城が所在しており、なるほど旧奥州街道を挟んで対になっていたことが良くわかります。
トップさくらとおしろ福島県福島市八丁目城
八丁目城
八丁目城本丸跡。
八丁目城本丸跡。
【所在地】 福島市松川町字愛宕山
【別称】 松川城、西館
【築城年】  
【築城者】 清野氏か
【城主変遷】 伊達氏[清野氏、堀越氏]−畠山氏[堀越氏]−伊達氏[伊達氏]
【廃城年】 天正十九年(1591)
【現状】 愛宕神社、山林、耕作地
 城郭として整備された年代は不明ながら、当城が所在する松川は鎌倉時代には佐藤秀行、その後は相馬重胤や伊達宗遠らが奥州街道を押さえる要衝として重視した地であった。対の城である土合館(西館)に対して東館ともいわれる。

 天文十一年(1542)に始まった伊達氏14代稙宗と嫡男晴宗の内訌、天文の乱において、小梁川宗朝らによって幽閉先の西山城より救出され、懸田城に逃れていた稙宗を堀越能登守がこの城に迎え、以後八丁目城を拠点に晴宗方の軍勢と戦っている。同十四年に稙宗は大森城へと拠点を移し、そして同十七年室町幕府将軍足利義輝の仲介によって大乱は終結した。なお天文年間の城主は清野遠江守であり、その父備前守が隠居館として土合舘を築いたともいう。遠江守は後に伊達氏に叛し自害し、その後堀越能登守宗範が城主となったともいわれる。
 元亀年間(1570-73)堀越宗範(家範?)が二本松城主畠山義国に内通し、八丁目城が畠山氏の手に落ちると、天正二年(1574)大森城主伊達実元がこれを奪回している。同十三年には大森城を息子成実に譲った実元の隠居城として使用されたが、2年後死去したため空城となり、その後二本松城主となった成実の支城として城番が置かれたようである。

 天正十八年(1590)豊臣秀吉は奥州仕置を行い、伊達氏17代政宗より会津、岩瀬、安積郡を没収した。そして八丁目城に滞在していた浅野長政に対し、太閤検地実施の命を下している。さらに翌十九年、政宗は伊達、信夫、安達郡も没収となったため、成実も伊具郡角田城へと移り、八丁目城、土合館はともに廃城となった。

 旧松川小学校西側に所在し、山頂の愛宕社付近が本丸となっています。城域には空堀、土塁が残っています。
 この城の南東1キロほどのところに対の城である土合舘が所在しており、この二つの城が相互に機能して街道を押さえていた様です。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「江戸幕藩大名家辞典 第一巻」(原書房1992)

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