福島市
旧信夫郡飯坂町(〜S39) |
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飯坂城 |
飯坂城跡標柱。 |
【所在地】 |
福島市飯坂町古舘
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【別称】 |
古舘 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
飯坂為家 |
【城主変遷】 |
伊達氏[飯坂氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
古舘公園、市街地 |
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伊達氏祖(中村)朝宗四男、伊達四郎蔵人右衛門尉為家が、文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げ、当地に所領を得て築城し、以後飯坂氏を称して居城したのが始まりとされる。
永禄年間(1558-73)には飯坂右近将監宗康が居城し、当時米沢城を本拠とした伊達氏16代輝宗、17代政宗に仕えた。宗康の娘は政宗の側室飯坂の局となり、後に政宗長子、伊予国宇和島城主となる秀宗の生母となっている。
「日本城郭大系」では、東南北の三方が絶壁で東方に摺上川を控えた要害としていますが、現在その面影は全く感じられず、福島市飯坂町の中央部市街地になっちゃってます。飯坂消防署の脇に標柱が建ち、"古舘公園"があるばかりですが、立地から考えると要害の地だっただろうなーという感じはしますけどねー。
因みに飯坂の局は、NHK大河ドラマ“独眼龍政宗”では猫御前として登場されています。秋吉久美子さんがあのキャラクターを存分に発揮して演じていらっしゃいました。
↑から10数年後、令和二年(2020)に訪問したところ、消防署は移転し、古舘公園に標柱、案内板が建てられていました。 |
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トップ>さくらとおしろ>福島県>福島市>大鳥城
大鳥城 |
大鳥城跡遠望。 |
【所在地】 |
福島市飯坂町舘ノ山
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【別称】 |
鳳城、鵬城、丸山城 |
【築城年】 |
寛治年間(1089)、保元二年(1157) |
【築城者】 |
佐藤季治、佐藤元治 |
【城主変遷】 |
奥州藤原氏[佐藤氏]… |
【廃城年】 |
文治五年(1189)か |
【現状】 |
舘ノ山公園(大鳥神社)、大鳥中学校 |
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寛治年間(1087-94)信夫庄司佐藤季春が築いたとも、保元二年(1157)季春の孫(子とも)佐藤元治(基治)が築いたともいわれている。『吾妻鏡』に拠れば後者とされているが、季春の代にはすでに築かれていたと考えられている。元治が築いた際に、鶴を城中に埋めて守護神としたため大鳥城と名付けたとする伝説がある。
佐藤氏は俵藤太藤原秀郷の後裔で、平泉の奥州藤原氏、西行法師らと同族であり、元治は秀郷より13代目の子孫にあたるとされる。奥州藤原氏に従い信夫郡近隣を支配し、元治の子継信、忠信兄弟は源義経の郎党として源平合戦に参加した。継信は文治元年(1185)屋島合戦で義経の身代わりとなり討死、翌年忠信は吉野山で義経一行を救うも捕らえられ、京都で自害を遂げている。
文治五年(1189)源頼朝は、藤原氏攻略のために28万といわれる大軍を奥州へ派遣した。藤原氏はこれに備えて阿津賀志山防塁を築き、17万の軍勢で頼朝軍を迎え撃った。しかし決戦となった石那坂、阿津賀志山合戦で、奥州藤原氏4代泰衡の異母兄、西木戸(錦戸)太郎藤原国衡が敗走、軍勢の中心であった元治ら佐藤一族もことごとく討死した。この戦いの後、大鳥城をはじめ朝日館、五十目館、芋殻館、五郎兵衛館、名倉館、平田館などの佐藤一族の城館は壊滅し荒廃したとされている。
なお、元治は奥州合戦で敗れた後捕らえられたが、許されて本所へ帰されたともいわれ、元治長男隆治は信夫郡に居住、佐藤一族の主流として勢力を張ったともされている。また元治の弟師泰の末裔佐藤清親が、建武五年(延元三・1338)に佐藤十郎左衛門入道を称し、伊勢国に移住するまで信夫本郷を本拠に活躍したことも知られており、大鳥城は南北朝期まで整備、拡張され使用されたとも考えられている。
また根子屋に残る赤舘という地名から、応永年間(1394-1428)伊達大膳大夫政宗が関東公方足利満兼との合戦の際に拠った城館とも考えられている。
現在主郭部である一の平周辺は舘ノ山公園となっており、大鳥神社の周囲には土塁、空堀が残っています。二の平はその西方の平場で、矢庫の跡と伝えられ、その西側が搦手とされています。三の平は現在野球場や大鳥中学校の敷地となっており、佐藤一族の館があったといわれています。
大手門のあった付近は“大門”の地名が残っており、近くの住民の方にお聞きしたところ、昔は明瞭な土塁が残っていたとおっしゃってました。 |
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トップ>さくらとおしろ>福島県>福島市>上岡館
上岡館 |
上岡館跡南東部に祀られる小祠。 |
【所在地】 |
福島市飯坂町東湯野上岡、下岡
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
東北自動車道、宅地、耕作地 |
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「日本城郭大系」には上岡館、下岡館として記載されているが同一(もしくは連郭)の館であろう。伝承や記録はなく詳細は不明である。
東西約100mほどの規模を持つ単郭の方形館と推定されているが、現在はその範囲を北東から南西にかけて東北自動車道が通じており、工事の際に道路幅のみ発掘調査が実施された。その結果館の整地層や土塁、空堀跡、掘立柱建造物跡、井戸跡などが検出され、館跡の存在は肯定されているが、一部のみの調査であったため全容は把握されていない。
まほろん「文化財データベース」の地図をもとに訪問しましたが、その場所はまさに東北自動車道の上を示しています。取り敢えず館跡の南端となる、高速道路下を東西に通じる道路を通ってみましたが良く判らず…。そこで車を降り、高速道路西側の道路(後で知りましたが往時の堀跡か)をとことこ北へ進んで行くと、付近に住むであろうお母さんに遭遇、話を伺ってみると“K野さんなら分かるかも〜”と先に立って案内して下さり、自宅ガレージで作業をしていたK野さんに訊いてくれました。K野さんは“ああ〜、あそこの鉄塔のところだよ、発掘もしてたなー”と教えて下さいました。
その鉄塔は高速道路東側にある携帯電話会社の中継アンテナ?で、その後図書館から借りて来た「福島市の中世城館」で見ると館跡南東部に当たる場所でした。同書の略測図で示される堀跡?はその時確認出来ませんでしたが、鉄塔の建つ場所は一段高く、その東側に小さな祠が祀られておりました。 |
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トップ>さくらとおしろ>福島県>福島市>五郎兵衛館
五郎兵衛館 |
五郎兵衛館跡付近。 |
【所在地】 |
福島市飯坂町五郎兵ヱ舘
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【別称】 |
大越城 |
【築城年】 |
平安時代 |
【築城者】 |
大越義持 |
【城主変遷】 |
佐藤氏[大越氏]… |
【廃城年】 |
文治五年(1189) |
【現状】 |
市街地 |
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信夫庄司佐藤元治(基治)の重臣大越五郎兵衛義持が築城し、居住したとされている。
文治五年(1189)義持は佐藤一族とともに、石那坂、阿津賀志山で源頼朝の軍勢を迎え撃ち討死、その際に五郎兵衛館も大鳥城ほか諸城とともに落ちたと伝えられている。
福島交通飯坂線医王寺駅東側、大鳥城南東約2キロの場所に所在しています。現在はほとんどが宅地となっており、「日本城郭大系」にわずかに堀、土塁が残るとあっても確認出来ませんでした。お散歩中のお父さんにお話しを伺ったところ、、どこそこに何がある…なんて教えて下さいましたが、ちょっと通訳の方が必要な感じでした…(^-^; |
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塩野目館 |
法伝寺観音堂、背後に空堀が残り、中央の木の奥が主郭。 |
【所在地】 |
福島市飯坂町東湯野会畑
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
果樹園、耕作地、法伝寺 |
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「日本城郭大系」には詳細不明とのみ記される。
399号国道沿い、東湯野字上町に所在する法伝寺北側、現在果物畑となっている台地が館跡です。法伝寺本堂脇から一段上がると観音堂があり、その背後に館跡西辺、もしくは西側の郭とを画する堀跡が確認出来ます。その堀跡の東側、比高約2mほどの箇所が主郭と思われますが、下草が繁茂し南側から上るのは困難だったため止めました(^-^;
地籍図によると土塁と思われる地割も確認出来ますが、その遺構は残っていない様です。
規模は東西約90〜100m、南北約130〜140mと推定されており、館跡南側は前述の通り二段、東側は未確認ですが周囲より一段高くなっているため、土塁、堀は北、西辺のみに設けられていたとも推定されています。
なお…こちらもまほろん「文化財データベース」の地図をもとに訪問したんですが、示された位置はよくあることですが異なっています(-_-;
初めその場所(字横町)に行ってみたところ全く判らず、果物畑で作業をしているお父さんに伺って判りました。お父さん曰く“俺の家はこの辺の庄屋だったんだけどわかんねぇな〜、まあ落ちぶれた庄屋だけどw”とのことでしたが、“昔の城ってのはちょっと高い所に作られたんだよな、じゃああそのこ寺の裏がそんな感じだから行ってみろ”と作業の手を休めて教えて下さいました。お蔭様で判りました、ありがとうございます<(_
_)> |
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トップ>さくらとおしろ>福島県>福島市>古館I
古館I |
金剛院北東に残る古館跡土塁。 |
【所在地】 |
福島市飯坂町平野字館屋敷
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【別称】 |
岩井備中守信能館 |
【築城年】 |
慶長年間(1593-1615)初頭 |
【築城者】 |
岩井信能 |
【城主変遷】 |
上杉氏[岩井氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
金剛院、宅地、果樹園 |
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慶長年間(1593-1615)初頭、会津若松城主上杉景勝家臣岩井備中守信能が構築、居館したと伝わる。
岩井信能は越後国春日山城主上杉輝虎(謙信)に小姓として仕え、天正六年(1578)輝虎の死後に起こった御館の乱では上杉景勝に与して勝利した。同十年(1582)、景勝より信濃国飯山城代に任ぜられ、城の改修、城下の整備を行い現在の飯山の基礎を築いた。慶長三年(1598)上杉景勝が若松城へ国替となると、信能もこれに従い陸奥国信夫郡へと移住、その際に居住したのがこの館とみられる。
なお武勇、知略のみならず行政手腕にも優れた信能は、安田能元、大石綱元らと並び会津三奉行と称されている。
館跡は金剛院東側に所在し、単郭の方形館であったと考えられている。早くから開墾されて田畑となり、現在は宅地となって往時の姿を留めてはいないが、西辺の土塁の一部と推定される土盛が残存している。
現在は金剛院駐車場脇に“岩井備中守信能館跡”の標柱が建てられており、その北側に上記の土塁と推定される土盛が確認出来ます。しかしその中央部分は崩されて通路となっており、南側も上部が崩されている様子…せめて崩される前の姿が見たかったですねー。 |
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トップ>さくらとおしろ>福島県>福島市>古館II
古館II |
古館跡南西隅土塁。 |
【所在地】 |
福島市飯坂町平野字古舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
個人宅、稲荷神社(古館の大ケヤキ) |
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構築年代、館主など詳細不明。
現在は宅地となっているが、個人宅敷地内に南西隅の土塁、空堀がL字状に残り、その内側には東西2段の平場が確認出来る。またその北側には東西約50mほどの土塁、空堀が残り、土塁上には稲荷神社が祀られ、また市指定天然記念物「古舘の大ケヤキ」が生育している。
東側には北東隅土塁の残欠とみられる土盛が見られ、東西約220m、南北約80〜90mの規模であったと推定されるが、南東部の遺構が潰滅しているため単郭方形館とは断言出来ない。
過去に訪問して北側の土塁(大ケヤキ)は見ていたんですが、改めて訪問したら南西側の土塁が気になる…。柵があったのでこれはもうお宅訪問しかない、と思い隣接する○○様宅に伺うと、ちょくちょく見学者もいる様で、奥様が炎天下の中わざわざご案内して下さいました。
以前は竹林になっていたそうですが、福島第一原子力発電所の事故後?伐採したとのこと。前述の通り訪問者もいるので、見学し易いように個人で保存、管理を行っているとおっしゃっておりました。趣味で来訪する私のような人間にもご対応頂き、非常に有難かったです。
なお、わたしは同じ“平野にある古館”ってことで、岩井備中守館と混同しておりましたよ…(^-^; |
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増田館 |
増田館北側堀跡。 |
【所在地】 |
福島市飯坂町東湯野舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
元亀、天正年間(1570-92)頃か |
【築城者】 |
増田氏か |
【城主変遷】 |
伊達氏[増田氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
住宅地、明智寺 |
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「日本城郭大系」に天正年間(1573-92)増田監物の居館、空堀が残るとある。伊達氏家臣であろう。
まほろん「文化財データベース」の地図をもとに訪問。示された範囲は字舘の範囲のみなんですが、宅地となっているため周囲の三島神社、明智寺を含めた辺りをぐるーっと廻ってみました。土塁、空堀跡の様な地形が散見されましたが何とも確証は持てず。むむーと思っていたところ、軽トラで明智寺に作業に来たお父さんがいたので速攻で捕まえ話を伺ったところ、(指差しながら)増田館はあの木が生えている××さん宅辺りだよ、と教えて下さいました。流石に個人宅なので侵入は憚られたので、またその周囲をぐるぐる〜っと歩いて退散しました。
その後図書館で「福島市の中世城館I〜III」を借りて来たので該当の項目を見てみると、範囲指定されているのはお父さんの言った通りXXさん宅を中心とする範囲の様子。しかし地図を見ると、字舘の東側に隣接して字前屋敷、その北側には字中屋敷の地名が残っているので、その範囲を含めた辺りも含まれていたのかも知れませんねー。
今考えると××さん宅に直撃すれば良かったなー。 |
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湯野陣屋 |
湯野陣屋跡石碑 |
【所在地】 |
福島市飯坂町湯野神明脇
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【別称】 |
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【築城年】 |
寛政四年(1792) |
【築城者】 |
土井利制 |
【城主変遷】 |
土井氏… |
【廃城年】 |
明治二年(1869か) |
【現状】 |
西根神社 |
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寛政四年(1792)に置かれた、三河国刈谷藩主土井氏の出張陣屋。
刈谷土井氏は、土井利勝三男利長を初代とし、正保元年(1644)下野国内に1万石を以て大名に列した。その後分知、加増があり、寛文三年(1663)には移封されて三河国西尾藩主2万3千石となった。延享四年(1747)4代利信の代に、同じ三河国内の刈谷藩主となり幕末に至るが、寛政二年(1790)6代利制の代に農民一揆が起こり、その故もあって同四年1万3千石を陸奥国伊達郡に移された。その際に置かれたのが湯野陣屋で、以降伊達郡内の分領を支配した。
現在は西根神社となっており、入口脇に"三州刈谷藩分領湯野陣屋跡"の石碑が建てられています。しかしながら解説板には、西根神社の祭神(上杉氏家臣なんですが)に関しての記述しかありません。
神社の周囲に土塁痕の様な微妙な盛土がありますが、遺構とは違うんだろうな…? |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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