福島市
旧信夫郡余目村(〜S29)
トップさくらとおしろ福島県福島市北矢野目城
北矢野目城
北矢野目城跡付近。
北矢野目城跡付近。
【所在地】 福島市北矢野目舘
【別称】  
【築城年】 天正年間(1573-92)か
【築城者】 福地氏か
【城主変遷】 伊達氏[福地氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地
 天正年間(1573-92)福地帯刀とその子孫が居城したとされるが、福地氏については米沢城主伊達氏家臣とも若松城主蒲生氏家臣ともいわれている。

 現在“館”の地名が残る周囲は宅地となっており、「福島県の中世城館跡」に記載のある空堀はどこだかわかりません。範囲も定かではないようです。写真を撮った辺りの果樹園にいたお父さんに何か知らないか尋ねたところ、良くはわからないけれど北矢野目の歴史について書かれた本があるので読んでみたら?と紹介して下さいました。教えていただいた場所へ行き、本を拝見しましたが、残念ながら持ち合わせがなく購入を断念。今となっては書籍名すら覚えていないのですが、読んだら更新します(^-^;
トップさくらとおしろ福島県福島市瀬上陣屋
瀬上陣屋
瀬上陣屋跡碑。
瀬上陣屋跡碑。
【所在地】 福島市宮代北口
【別称】  
【築城年】 享和二年(1802)
【築城者】 木下利徽
【城主変遷】 木下氏[二階堂氏、塩見氏](1802-70)
【廃城年】 明治三年(1870)
【現状】 宅地、耕作地
 享和二年(1802)に置かれた、備中国足守藩木下氏の出張陣屋。

 足守藩は、豊臣秀吉の正室寧子(ねね、おね、高台院)実兄木下家定を藩祖とする外様大名で、慶長六年(1601)播磨国姫路城2万5千石より備中国足守陣屋に移封となったのが始まりである。
 寛政十二年(1800)9代利徽(トシヨシ)が、幕府より陸奥国信夫、伊達郡内2万2千石の村替を命じられ、享和二年(1802)分領支配の陣屋をここに設置した。この25ヶ村2万2千石は、天保2年(1831)に再度の村替が行われ、陸奥国内の分領が1万1千石になるまで表高の実に9割を占めていた。郡奉行として当初は二階堂弥五作らが派遣されたが、天保年間(1830-43)以降は塩見氏の世襲となった。

 陣屋のあった瀬上村は早くから宿駅として栄えており、戊辰戦争の折には仙台藩士細谷十太夫率いる衝撃隊(烏組)の根城となった。足守藩は当初は東軍に属していたが、後に西軍に転身したため、瀬上宿は大変混乱したという。

 現在は宅地となっており、陣屋中央に祀られていた最上稲荷社が残っています。稲荷社を譲与された斎藤氏宅裏に天然記念物の大カヤと立派な石碑があり、庭園なども当時の様子を伝えているようです。
 突然お伺いして拝見させて頂きましたが、奥様がイヤな顔一つせず快く対応して下さいました。見学者もだいぶいらっしゃるようです(大手旅行代理店の名前もありました)。
トップさくらとおしろ福島県福島市宮代館
宮代館
宮代館跡付近(宮代山王神社)。
宮代館跡付近(宮代山王神社)。
【所在地】 福島市宮代鍛冶畑
【別称】 早城
【築城年】 永正年間(1046-53)か
【築城者】 源義家か
【城主変遷】 源氏…
【廃城年】  
【現状】 日枝神社(宮代山王神社)、宅地
 永正年間(1046-53)、源頼義が陸奥国の俘囚安倍頼時、貞任父子を攻めた前九年合戦の際に際に築かれたとされる。安倍一族に備えるため、僅か三昼夜で築かれたため“早城”と称されたとされ、『義経記』に金売吉次の説話として“はやしろ”の記載が見られるという。しかしこれは伝承に過ぎず、その詳細は不明である。

 館内に残る供養塔などによると、弘安年間(1278-87)には左衛門尉源朝定なる人物が居住したとされる。

 館跡西側に日枝神社(宮代山王社)があり、創建時期は不明ながら宮代の地名はこの神社に由来すると考えられている。また館跡を信夫郡衙に比定する説もあり、条里制遺構も残存している。館の規模は東西百二十間、南北百十間であったという。

 「日本城郭大系」には南側に一部遺構が残り、東、西、北側にそれぞれ空堀、土塁が現存しているとありますが、現在は宅地、畑地などになっており確認しづらいです。日枝神社付近を探してみて土塁らしきものは確認しましたが、見当違いな場所を探していたのだろうか…?
福島市
旧信夫郡荒井村(〜S30)
トップさくらとおしろ福島県福島市愛宕館
愛宕館
愛宕館跡か?
愛宕館跡か?
【所在地】 福島市荒井愛宕下
【別称】  
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】  
【廃城年】  
【現状】 陸上自衛隊福島駐屯地
 まほろん“文化財データベース”の位置情報を参考に訪問しましたが、おそらく画像の小丘陵が当てはまるんじゃないかな…?ってな程度です。陸上自衛隊福島駐屯地内に所在しているので、不法侵入なんて出来ませんしねえ(画像奥の柵は有刺鉄線だし)。
 丘陵自体は、長さはともかくとして幅はなく、頂部に平場があったとしてもかなり狭い様に見受けられました。見ての通り高さもなく、仮に柵列を並べたとしても防御の足しになるとも思えない。
 「日本城郭大系」には記載がなく、「福島県の中世城館跡」には山頂に占地し現況は山林、遺構は空堀、郭となっているとの記載なので、実際は駐屯地南西の金剛山から連なる尾根上に立地しているものと思われます。果たしてこの丘も遺構の一部なのか?
トップさくらとおしろ福島県福島市古内館
古内館
古内館空堀跡。
古内館空堀跡。
【所在地】 福島市荒井梅後林
【別称】 梅子館
【築城年】  
【築城者】 古内氏か
【城主変遷】 古内氏…
【廃城年】  
【現状】 うめご保育園、宅地、雑木林
 「日本城郭大系」「福島県の中世城館跡」ともに古内主膳の居館とのみ記載があり、前者には土塁、空堀、後者には空堀が残るとある。

 まほろん“文化財データベース”の位置情報を参考に訪問、うめご保育園の周囲を徘徊し、それらしいところを発見しました。保育園の北側を用水路が通じているのですが、園北東隅付近に小さな橋が渡してあり、そこから侵入するとすぐ空堀と思われる写真の場所に入れます。が、すぐ隣が民家なので、ささっと写真だけを撮り退散しました。
福島市
旧信夫郡大笹生村(〜S30)
トップさくらとおしろ福島県福島市大笹生城
大笹生城
大笹生城跡標柱及び遠望。
大笹生城跡標柱及び遠望。
【所在地】 福島市大笹生字館
【別称】 根津館
【築城年】 文治年間(1185-90)、文安五年(1448)など
【築城者】 根津氏、瀬上康俊など
【城主変遷】 (根津氏)…瀬上氏(1448-98)…
【廃城年】 明応七年(1498)頃か
【現状】 山林、耕作地
 「日本城郭大系」「福島県の中世城館跡」には、文治年間(1185-90)、根津監物の居館、土塁、空堀が残ると記載される。
 しかし現地の標柱には、“築城年代不詳の古い館跡で、一説に文安五年(1448)瀬上氏6代康俊が築いて居館した”と記される。康俊は弟の7代康家と争い自刃、その後8代弥三郎康秀が明応七年(1498)頃まで居城し、摺沢館へ移ったという。

 小高い丘陵上に築かれた城で、現在は耕作地になっている様です。ちょっと離れた住宅地の道路沿いに標柱が建てられていますが、何とも難解な記述で…、上記の解説はわたしの解釈が間違ってるかも。標柱から西へ200mと書いてありますが、訪問時は積雪のため遠望のみを確認しています。
福島市
旧信夫郡佐倉村(〜S30)
トップさくらとおしろ福島県福島市下村陣屋
下村陣屋
下村陣屋跡とされる稲荷神社付近。
下村陣屋跡とされる稲荷神社付近。
【所在地】 福島市佐倉下紫内
【別称】  
【築城年】 延享三年(1746)
【築城者】 戸田氏
【城主変遷】 戸田氏(1746…)…田沼氏(5代・1787-7823)…
【廃城年】  
【現状】 耕作地、宅地、稲荷神社
 延享三年(1746)、当地が下野国宇都宮藩戸田氏の所領となった際にその出張陣屋として構築された。しかし戸田氏は寛延二年(1749)には肥前国島原藩へ移封となっており、その後宇都宮に入封した深溝松平氏、次いで再封となった戸田氏の時代もその所領であったかは不明だが、天明七年(1787)下村藩が立藩された際、藩主田沼氏は宇都宮藩の出張陣屋を転用して居所としたとされる。


 下村藩初代藩主田沼意明は、遠江国相良藩主で幕府老中となった田沼意次を祖父とし、意次の世子で幕府若年寄に任ぜられた意知を父として誕生した。

 祖父意次は江戸幕府10代将軍徳川家治の信任厚く、大いに権勢を誇ったが、その権勢と施策は他の幕閣や諸大名、そして庶民に至るまで批判の対象となっていた。そして天明四年(1784)、世子で若年寄であった意知が旗本佐野政言によって江戸城内で殺害されたことで権勢に衰えが見え始める。さらに同六年(1786)に将軍家治が死去すると、松平定信ら政敵の台頭により失脚、最盛期に5万7千石あった石高も順次没収され、意知暗殺後に世子となった孫の意明が同七年(1787)相良藩2代藩主を相続した際には2万7千石まで減少していた。そしてさらに同年、意明は1万石に減封の上で陸奥国下村へ移封となり、ここで下村藩が立藩されることとなった。

 前述の通り、田沼氏は宇都宮藩の出張陣屋を転用して下村藩庁としたが、藩主田沼意明は江戸定府とされて所領への下向も許されなかった。寛政八年(1796)意明は大坂定番もしくは大坂加番に任ぜられられたものの、一度も所領を見ることなく同年死去した。
 その後養嗣子となり2代藩主となった弟意壱(意知次子)は同十二年(1800)、次いでその養嗣子となり3代藩主となった弟意信(意知四子)も享和三年(1803)に次々と夭折する。次いで養嗣子となり4代藩主となった意定(意次弟意誠の子意致四子)も翌文化元年(1804)に死去し、次いで5代藩主となったのが意正(意次四男、つまり初代意明〜3代意信の叔父)であった。

 意正は、父意次の政策を支えた老中水野忠友の養嗣子となり水野忠徳と称していたが、実父意次の失脚によりその養子縁組は解消され、田沼家に戻された後は母方の姓を称して田代玄蕃を称した。そして文化元年(1804)、甥の田沼意定が死去すると末期養子として田沼本家の家督を相続し、下村藩5代藩主となった。
 その頃の幕政の中心人物は老中水野忠成であり、意正が養子縁組を解消された後に水野忠友の養嗣子に迎えられた人物であった。意正、その後忠成の養父となった忠友は、幕政において元来田沼派の人物であり、忠成も当然その人脈に連なる人物であったこともあり、意正は文政二年(1819)忠成の推挙により若年寄へと抜擢された。更に同六年(1823)には忠成、11代将軍徳川家斉の尽力により旧領である相良藩への復帰が許され、それに伴い下村藩は廃藩となった。


 現在は耕作地となっており、一角に稲荷神社が建てられている。神社に掲げられた由緒書には、下村藩田沼氏についての記載がある。


 佐倉下集会所向かいの民家脇に水路が通じており、その水路に沿って西に進むと稲荷神社へ至ります。その水路が陣屋に由来したものなのかはよく判りません…。周囲を見渡しても遺構と思える箇所もありませんんでした。なお、集会所の前に標柱が建てられていますが、消えかかった文字を見る限り下村宿に関するものの様です。
 ちなみに…わたしはずっと"サクラシタ"という地名だと思っていたんですが、"サクラシモ"なんですねー。旧信夫郡佐倉村の中の旧下村(シモムラ)分と考えると、確かに"サクラシモ"なんですよね。勉強になるなあ。
トップさくらとおしろ福島県福島市名倉城
名倉城
名倉城北側堀跡(城跡北西隅より)。
名倉城北側堀跡(城跡北西隅より)。
【所在地】 福島市佐倉下字館
【別称】 亀ヶ城、南倉館
【築城年】  
【築城者】 信夫重治
【城主変遷】 信夫氏…
【廃城年】 文治五年(1189)か
【現状】 畑地、果樹園、墓地
 大鳥城主佐藤氏一族の信夫小治郎重治が築いたとされる。重治は文治五年(1189)の奥州合戦において、一族とともに石那坂合戦で討死にしたという。
 規模は東西80間、南北120間で、北辺から東辺へ斜めに道路が通じている。北西隅から東辺を巡って南西隅までのコの字型に一段下がった部分が堀跡であり、以前は西側に隅郭跡が認められたという。

 東北自動車道福島西IC北西、佐倉西工業団地(キヤノンなど)の東側に位置します。標柱などはなく、「日本城郭大系」の要図と地図を見比べて見当を付けています。付近の住民の方々にもお訊きしたんですが、わからないというお答えしか頂けませんでした。「城郭大系」の要図とは若干様子が変わっているようで、道路に分断された北東部は墓地となり、境界部が判然としなくなくなっていました。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)

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