蓑首城本丸跡(坂元神社)。 |
【所在地】 |
山元町坂元字舘下
|
【別称】 |
坂元城、坂元要害 |
【築城年】 |
元亀三年(1572) |
【築城者】 |
坂元俊久 |
【城主変遷】 |
伊達氏[亘理氏(坂元氏)、後藤氏、黒木氏、津田氏、大條氏](1572-1869) |
【廃城年】 |
明治二年(1869) |
【現状】 |
坂元神社、坂元小学校、宅地 |
|
藩政時代の仙台藩伊達氏の要害の一。元亀三年(1572)坂元三河守俊久が築城したとされる。
坂元三河守俊久は小堤城主亘理元宗の家臣で、元亀二年(1571)小高城主相馬氏の侵攻により居城愛宕山城が落城、父大膳が討死したことにより、翌年蓑首山に新城を築いて移ったいう。天正十七年(1589)伊達政宗が当時相馬氏の勢力下であった宇多郡新地城、駒ヶ嶺城を攻略した際、俊久も亘理元宗、重宗父子に従って出陣するも討死している。同十九年(1591)政宗の岩出山城移住に伴い家臣の配置替が行われると、亘理氏は遠田郡涌谷城へ所替となり、坂元氏の子孫もこれに従い当地を離れた。
その後坂元城主は後藤信康、黒木守元、津田景康と目まぐるしく交代するが、元和二年(1616)大條左衛門(長三郎)宗綱が2千石を以て拝領して以降、代々大城氏が居住して明治維新を迎えている。大條氏は伊達氏8代宗遠の三男孫三郎宗行を祖とする伊達氏一族族で、伊達郡大枝城を居城として大枝姓(のち大條へ改称)に改称、宗綱はその8代目であった。主に江戸詰で、家老、若年寄、奉行などを歴任し、12代監物道頼は加増を受けて4千石の大身となっている。
藩政時代は城に準ずる要害に位置付けられ、谷地小屋要害、亘理要害と並んで陸前浜街道を守備する拠点の一つだったが、17代監物(孫三郎)道徳の代に戊辰戦争を迎え廃城となった。なお道徳は後に伊達姓に復して伊達宗亮を称し、玄孫である伊達みきおがサンドウィッチマンのコンビ名で平成十九年(2007)M-1グランプリを制している。
現在坂元神社が鎮座する高台を本丸とし、北に隣接する坂元小学校校地が二の丸、更にその北側に三の丸がある連郭式の平山城であった。全体の規模は東西約250m、南北約300mほどの規模であったという。本丸は標高約35m、東西70m、南北40mほどの規模で、周囲に腰曲輪があり、外縁を土塁が巡っているため空堀状となる。また坂元神社社殿の裏側には幅、深さともに20mほどの大きな堀切が残っている。また古い絵図によると、本丸、二の丸の周囲には水堀が巡り、特に東側は大きな沼状になっていたのが見て取れ、現在も周囲の水田の中にその痕跡が認められる。なお旧三の丸に所在する個人宅に坂元要害の大手門が移築され、また大條氏15代道直が仙台藩12代藩主伊達斉邦より拝領したという豊臣秀吉ゆかりの茶室が現存している。
実家から近い割にしばらく訪問していないですねー。現存門と茶室を見に行ったのが最後かもしれません。多少は目も肥えて来ていると思うので、改めて詳しく見てみたい城館の一つ…ってそれが多すぎるのが問題なんですけどね。
M-1グランプリの下りは不要かも(笑)ですが、初めて知った時には結構驚いた記憶があります。現在は伊達氏庶流の庶流というのは広く知られていることではありますが、その当時は“伊達政宗の子孫!”的な取り上げ方をされていたので、“政宗の子孫ではないだろ〜”と思ってました(^-^;
いや、大好きなんですけどねサンドウィッチマン。なお前職の山元町長は大條氏でしたが一族なのかな? |