亘理町
トップさくらとおしろ宮城県亘理郡亘理町石間館
石間館
石間館跡(石間神社)。
石間館跡(石間神社)。
【所在地】 亘理町逢隈下郡石間山
【別称】 下郡古館
【築城年】 平安時代か
【築城者】 源義家か
【城主変遷】 (源氏)…
【廃城年】  
【現状】 石間神社
 八幡太郎(義家)の陣所と下郡村『風土記』にあるという。しかし土塁も堀も見当たらず、城郭としては少々疑問であろうと紫桃正隆氏は著述している。

 『風土記』には"古館"として高さ四丈、東西四十二間、南北百三十間、石間神社の社地、と記載があるという。


 鬱蒼とした林の中に鎮座する石間神社の地が館跡と伝えられている様ですが、紫桃氏の著述通り全く遺構らしきものは見当たりません。
トップさくらとおしろ宮城県亘理郡亘理町小城内館
小城内館
小城内館跡遠望。
小城内館跡遠望。
【所在地】 亘理町逢隈田沢小城内
【別称】 田沢城
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】 武野氏、武石氏か
【廃城年】  
【現状】 宅地、山林
 武野某あるいは武石某の居城と伝わるが、詳細は不明である。

 比高約40mほどの丘陵上に所在し、東西40m、南北70mほどの規模であるとされるが、遺構としては特に目ぼしいものはなく、それらしい形跡も無いという。

 『仙台領古城書上』には“山 田沢城”として東西十六間、南北三十二間と記載がある。


 丘陵西側に民家があり、初めて訪問した際にお話を伺ったところ、上に標柱が建てられているとおっしゃっていました。「別に上っても良いよ、上れれば」(笑) のお言葉通り、夏の盛りに行ったため下草が繁茂していたため途中で諦めました。なお現在は丘陵東側に標柱が建てられています。
 紫桃正隆氏によれば「今はその範囲を推定することも難しい」との事。氏が訪問された時でそうならば、現在などもっと判らないでしょうなあ。
トップさくらとおしろ宮城県亘理郡亘理町小堤城
小堤城
小堤城跡土塁。
小堤城跡土塁。
【所在地】 亘理町泉ヶ入
【別称】 亘理城
【築城年】 延元四年(暦応二・1339)頃か
【築城者】 武石(亘理)広胤
【城主変遷】 武石(亘理)氏…相馬氏、伊達氏[亘理氏]
【廃城年】 天正年間(1573-92)か
【現状】 大雄寺
 文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げた千葉介常胤は、戦後源頼朝より陸奥国諸郡の地頭職を与えられた。翌建久元年(1190)、常胤は亘理、伊具、宇多三郡を下総国千葉郡武石郷の在地領主となっていた三男左衛門尉胤盛に与え、胤盛は当初代官を遣わして当地を治めていた。その後の乾元元年(1302)、武石氏4代肥前守宗胤が武石城より当地へ下向、小堤城を築いて居城とした。延元四年(暦応二・1339)7代因幡守広胤が足利尊氏より亘理、伊具、宇多三郡の所領を安堵され、以降武石を改め亘理氏を称した。亘理氏は伊達、相馬両勢力に挟まれながらその所領を維持するも、戦国時代末期には伊達氏より嗣子を迎えてその勢力下に組み込まれ、17代兵庫頭元宗の頃には伊達氏一族の重鎮として勢力拡大に大きく貢献した。

 小堤城は亘理氏代々の居城であったが、天正年間(1573-92)元宗が亘理城を築いて移った後廃城になったとされる。亘理氏はその後天正十八年(1590)遠田郡涌谷城へ所替となり、亘理城には信夫郡大森城より片倉小十郎景綱が封ぜられた。さらにその後片倉氏が刈田郡白石城へと移ると、慶長七年(1602)より角田城より伊達安房守成実が入城、以降代々亘理伊達氏として仙台藩領南東部の要衝を押さえる任に当たった。

 慶長九年(1604)、成実は小堤城の地に父実元の菩提寺雄山寺を信夫郡より移し、万松山雄大寺と号した。後に大雄寺と寺号を改められ、亘理伊達氏累代の御霊屋が祀られて今日に至っている。


 大雄寺境内地が城跡であり、比高約15mほどの丘陵地となっている。東西約100m、南北約130mの小規模な単郭式の館跡であり、周囲を巡っていた土塁の一部が残る以外遺構はあまり残っていない。一段高くなった城域南側は亘理伊達氏歴代の御廟所となっており、初代成実とその父実元、そして13代邦実までの御霊屋、墓石が並んでいる。


 実家へ行った折に亘理神社(亘理城跡)へは割と参拝するものの、大雄寺にはあまり訪問してないですね…。数年前に、県指定文化財である伊達成実木造を見たくて霊屋の御開帳に脚を運んだくらい。その際はあまり混み合っていなかったので、木造の前でずーーーっと写真撮り捲くっておりましたなあ(^-^; 年2回実施されている様なので、また行ってみたいですね。
トップさくらとおしろ宮城県亘理郡亘理町三十三間堂官衙遺跡
三十三間堂官衙遺跡
三十三間堂官衙遺跡郡衙地域の礎石。
三十三間堂官衙遺跡郡衙地域の礎石。
【所在地】 亘理町逢隈下郡椿山
【別称】 亘理郡衙、小松堂館、小松殿
【築城年】 平安時代か
【築城者】  
【城主変遷】 古代律令政府…
【廃城年】  
【現状】 国指定史跡、山林
 9世紀末から10世紀初頭にかけて、古代律令政府によって設置された亘理郡衙とされる。

 実務を担当する官衙地域と米などを納める正倉地域とに分かれており、官衙地域にある“コ字”型に並ぶ掘建柱建物跡が郡庁跡と見られている。その周辺には官衙施設と見られる建物群や塀跡が発掘され、正倉地域には礎石式倉庫跡などが発見されている。

 古くは小松大臣平重盛が隠棲した地と伝えられ、小松殿と称されていた。現在は亘理郡衙としてほぼ確実視されており、そうであれば奥州藤原氏の祖、陸奥国府多賀城に勤める在庁官人であった亘理権大夫藤原経清の治めていた地という事になる。


 久しく訪問していない地元亘理町の国指定史跡です。訪問する度に若干の整備が進んでおり、また宅地化も進んでいます。前は寂れた案内板のほかは何もなかったのになあ…。発掘調査も行われており、現地説明会も何度か実施されていますが、何故か自分で参加したことがなく、父母や妻子に代理参加して貰ってました(^-^; りんが参加した際には、さすがに幼児の参加者は少なく人気者だったそうです(笑)
トップさくらとおしろ宮城県亘理郡亘理町十文字館
十文字館
十文字館跡標柱。
十文字館跡標柱。
【所在地】 亘理町逢隈十文字宮前
【別称】 古館
【築城年】 平安時代末期
【築城者】 源(十文字)綱安
【城主変遷】 源(十文字)氏−武石(亘理)氏、相馬氏[十文字氏]…
【廃城年】 天正十三年(1585)
【現状】 十文字神社、耕作地、宅地
 平安時代から戦国時代にかけてこの地を領した十文字氏の居館。

 十文字氏は嵯峨源氏渡辺綱の末葉である源左衛門綱安を祖とする。綱安は源義経に従って都より奥州へ下るが、文治五年(1189)奥州合戦に敗れた後この地に土着、館を築き荒地を切り拓いて所領とし、以後十文字氏を称して居住したという。初め小堤城主武石(亘理)氏に仕えたが、その勢力が衰えた正中年間(1324-26)頃には小高城主相馬光胤に2700石を以て仕えたという。その後十文字政綱が再び亘理氏に仕えたというが、天正十三年(1585)十文字政安が伊達政宗との合戦に敗れて遠田郡へと移ったとされており、去就は定まっていなかったものと思われる。
 というのも、名取郡から南の刈田、伊具、亘理、宇多郡周辺は、中世を通じて亘理(武石)、伊達、相馬氏といった勢力の激戦地であり、十文字氏はもちろん、武石氏も伊達、相馬両勢力に挟まれて去就は定まっていなかった。亘理氏が伊達氏の麾下に属したのは弘和元年(1381)8代肥前守行胤の代とされるが、その後は離反して抗争を続け、再びその麾下に加わったのは15代宗元の代であった。以降亘理氏は伊達氏より嗣子を迎えるなどして完全に家臣団に組み込まれているので、前述の通り十文字氏が天正年間(1573-92)伊達氏と敵対していたとすれば、亘理氏を離れて再度相馬氏に属していたものであろう。
 しかし天正九年(1581)伊達氏と相馬氏の合戦の際には、おそらく亘理家中にあったであろう十文字新助なる人物が、相馬勢の部将村松薩摩(後の駒ヶ嶺城城代)によって討ち取られている。十文字氏自身も伊達、亘理方と相馬方に分裂していたのかも知れない。なお亘理郡を去った後の十文字氏であるが、登米郡中津山の上要害館内要害館の館主がそれぞれ十文字内記、同八郎左衛門兄弟と伝えられており、遠田郡涌谷城へ移った亘理(涌谷伊達)氏に従ってその家臣となった様である。

 発掘調査では中世の遺構、遺物が全く発見されておらず、建造物なども大きな作り替えがなく数回程度と推定されている。従って前述した様な十文字氏の伝承は考えにくい。また遺構の形態も一般的な中世城館とは異なっているため、現在は江戸時代の有力者の館(屋敷)と推定されている。なお出典は不明ながら、天正十三年(1585)の落城の後、伊達氏は白土小十郎にこの城を与え、その子孫が代々城跡に居住して明治を迎えたといわれている。また十文字村『風土記』には、落城後この地に伊達安房屋敷が置かれた旨の記載があり、亘理要害の別邸として使用された可能性も示されている。


 十文字神社東側、現在は耕作地として利用されている一帯が十文字館跡である。現在は館跡南側を道路が分断しており、その道路沿いに標柱が建てられている。道路より南側の様子は全く見当がつかないが、北側には若干遺構が確認出来、道路北側だけでも東西約100m、南北約120m、道路南側を含めれば南北200m以上の規模を持つ、周囲を沼沢地に囲まれた平城であったと考えられている。館跡の周囲には水堀跡が巡っており、北端の杉林の中には堀、壇が残存している。


 現在は周囲は全くの田園地帯であり、標柱がなければ非常に判りにくい館跡です。学生の頃実家に帰省した際、亘理町出身の母親から、「十文字には昔お城があったらしいよ」との情報を受けて訪問したのが最初だったはず?その後は出張時や実家へ帰省の際など度々訪問してはおりますが、さすがにじっくりと遺構を探すべ〜ってタイミングじゃないんですよね(^-^;
トップさくらとおしろ宮城県亘理郡亘理町亘理城
亘理城
亘理城跡(亘理神社)本丸遠望。
亘理城跡(亘理神社)本丸遠望。
【所在地】 亘理町旧館
【別称】 亘理要害、臥牛城、御館
【築城年】 天正年間(1573-92)
【築城者】 亘理元宗
【城主変遷】 伊達氏[亘理氏、片倉氏、(亘理)伊達氏]
【廃城年】  
【現状】 亘理神社、市街地、商業施設
 藩政時代の仙台藩伊達氏の要害の一。天正年間(1573-92)亘理兵庫頭元宗によって築城された。

 文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げた千葉介常胤は、戦後源頼朝より陸奥国諸郡の地頭職を与えられた。さらに常胤よりその内の亘理、伊具、宇多三郡を与えられたのは、下総国千葉郡武石郷の在地領主となっていた三男左衛門尉胤盛であった。初め武石氏は本拠地である武石城にあり、当地には代官を遣わして治めていたが、乾元元年(1302)4代肥前守宗胤が下向して小堤城を居城とした。その後延元四年(暦応二・1339)、7代因幡守広胤が足利尊氏より亘理、伊具、宇多三郡の所領を安堵され、その頃より亘理氏を称する様になった。

 弘和元年(1381)、亘理氏8代行胤が刈田郡での合戦で伊達弾正大弼宗遠に敗れその麾下に属することとなったが、ほどなく離反して再び抗争を繰り広げている。当時刈田、伊具、亘理、宇多郡周辺は周辺諸豪族の激戦地であり、亘理氏も伊達氏のみならず同族である相馬、国分氏らと離合集散を繰り返していたのである。13代兵庫允茂元の代には名取、柴田郡までを支配下に収めたとされ、かなりの勢力を有していたと見られる。
 しかし15代右近将監宗元の代には再び伊達左京大夫稙宗の麾下に復しており、嫡男兵庫頭宗隆は伊達氏の部将として天文五年(1536)の大崎合戦に出陣している。さらに嫡男のなかった宗隆が、稙宗の側室に入った娘の子彦四郎綱宗を嗣子に迎えたことで、独立した領主ではあったがほぼ完全に伊達氏の勢力下に組み込まれていった。なおその綱宗は、父稙宗と兄晴宗の争いである天文の乱に巻き込まれ、天文十三年(1544)わずか18歳で討死を遂げた。そしてその跡を継いだのが実弟である17代兵庫頭元宗であった。
 元宗は兄晴宗から輝宗、政宗と続く伊達氏一族の重鎮として、その勢力拡大に大きく貢献した。歴代の居城である小堤城からこの亘理城へ移ったのも元宗であり、それは天正年間(1573-92)のこととされている。
 亘理氏の所領は相馬領に接するため、元宗と嫡男美濃守重宗は相馬氏との合戦で活躍、特に重宗は天正十七年(1589)当時相馬領となっていた宇多郡新地城駒ヶ嶺城攻めで先陣として大功を挙げている。しかし重宗は、翌天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で伊達氏居城が米沢城より岩出山城へと移った際に遠田郡への所替を命じられ、初め百々城へ、次いで涌谷城へと居城を移した。そして江戸時代には伊達姓に復し、涌谷伊達氏として明治維新を迎えている。

 亘理氏が遠田郡へ移った後、亘理城には信夫郡大森城より片倉小十郎景綱が入城した。奥州仕置で伊達政宗から召し上げられた刈田、伊達、信夫郡などは、蒲生氏郷、木村吉清らに与えられており、伊具郡角田城に配された伊達成実とともに信任の厚い景綱が伊達領南方の押さえとして任ぜられたものであった。しかしその後、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の功で刈田郡が伊達領に復すと、翌年景綱は白石城へと所替になった。

 片倉氏の後を受け、慶長七年(1602)亘理城主となったのは家中随一の猛将として知られる伊達安房守成実であった。成実は伊達晴宗の弟実元を父に、晴宗の子輝宗の妹を母に持つ生粋の伊達一門であり、天正十二年(1584)実元より信夫郡大森城主を継いだ後、同十四年(1586)には安達郡二本松城主、同十八年(1590)奥州仕置により安達郡を失った後は伊具郡角田城主に任ぜられるなど、1歳違いの主君政宗より常に厚い信任を受けていた。文禄四年(1595)政宗との間に確執を生じて高野山へ出奔し角田の所領を失うも、慶長五年(1600)関ヶ原合戦に伴う白石合戦で直前に帰参を果たし、その後伊達領南東部の要衝亘理城を拝領したのである。なお関ヶ原合戦開戦に当たっては、当時の会津若松城主上杉景勝より破格の待遇を以て仕官を請われながらこれを拒絶している。
 成実以降、亘理伊達氏は角田城主石川氏に次ぐ一門の次席、そして亘理、宇多郡内に家中最大となる2万4千石の知行を得て、代々亘理城(要害)主に任ぜられた。しかし明治元年(1868)、戊辰戦争の敗戦によって仙台藩は柴田、刈田、伊具、亘理、宇多5郡を召上となり、盛岡藩主であった南部氏に与えられることとなった。仙台藩の禄高は28万石に半減し、所領を失った亘理伊達氏の禄高は僅か58石まで激減、それでは代々仕えてきた1300余名の家臣とその家族を養うことは当然不可能であったため、亘理伊達氏15代邦成は家老常葉新九郎(田村顕允)の献策を容れて蝦夷地への移住を決意した。そして明治三年(1870)より胆振国有珠郡へと入植を開始した亘理伊達氏主従は、様々な困難を乗り越えて北海道の開拓に従事し、その努力は今日の北海道伊達市発展の礎となった。


 城跡は本丸跡である亘理神社境内地を中心とした一帯で、本丸東側に二の丸が置かれ、本丸西側にあった大沼から引かれた水堀が周囲を巡っていた。本丸は比高15mほどの丘陵となっており、東西に細長い平坦面で、やや南に屈曲した西部に居館が置かれていた。現在は本丸東側を切って道路が通じており、二の丸跡は削平されてスーパーマーケットとなっている。また西側の大沼は完全に埋め立てられており、道路や亘理高校校地となっている。本丸南側に内堀の一部が池として残っており、大手門はその南東側に所在した。


 郷土のヒーロー伊達成実の居城です♪実家があっても実際には亘理町に住んだことのないわたしなんですが(^-^;、それでも一番好きな戦国武将といえば成実公です。毛虫の嫌いなわたしでも、兜の前立の由来を知った時は「カッコ良い…」と思ってしまいました。毛虫は決して後ろへ退かないという意味があるそうです。
 母親の実家が亘理町だったので、当然子どもの頃から何度も遊びに行っておりました。さすがに中学、高校生くらいになってからはほとんど行かなくなっていましたが、学生の頃、実家に帰省した際に久しぶりに祖父に会いに行くと、今まで全然気にも留めていなかったモノが目に止まりました。茶の間の壁にナニヤラ見たことのある図面…、亘理城の絵図面が額に入れて飾られていたのです。祖父に訊くと、北海道へ渡った旧亘理家中の子孫の方が郷里を思い浮かべながら描いた云々…と言っていた記憶があります。祖父は昭和の合併前に村の偉いさんを務めたことがあったらしいので、今思えばもっと突っ込んで訊いてみれば良かった…なんて今にして思いますね。その家もあの地震による津波で流されてしまいましたので、あの絵図はもうないんだろうな…。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)

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