角田市
旧伊具郡角田町(〜S29)
トップさくらとおしろ宮城県角田市角田城
角田城
角田城跡碑。
角田城跡碑。
【所在地】 角田市角田字牛館
【別称】 角田要害、臥牛城、金鶏ヶ館
【築城年】 永承年間(1046-53)、天正年間(1573-92)、慶長三年(1598)
【築城者】 (平永衡)、田手宗光、伊達成実、石川昭光
【城主変遷】 (平氏…亘理氏)…伊達氏[田手氏、伊達氏、石川氏](1558頃-1869)
【廃城年】 明治二年(1869)か
【現状】 角田高等学校
 藩政時代の仙台藩伊達氏の要害の一。
 伝承によれば、永承年間(1046-53)伊具十郎平永衡が館を構えたのが始まりとされるが確証は無い。

 南北朝時代、伊具郡は陸奥国府多賀城霊山城を結ぶ戦略的要地であったため、しばしば争乱の地となっていた。当時伊具郡を掌握していたのは、亘理郡小堤城を本拠としていた武石(亘理)氏であったと考えられている。しかし弘和元年(永徳元・1381)伊達郡梁川城主伊達弾正少弼宗遠と亘理肥前守行胤が戦い、その結果伊具郡は伊達氏の支配下となった。

 戦国時代、伊具郡は当時出羽国置玉郡米沢城に居城を移していた伊達氏の所領であったが、隣接する宇多郡小高城主相馬氏の侵攻にさらされていた。そこで永禄年間(1558-70)伊達輝宗は田手宗光に命じて角田に城館を設け、付近一帯を支配させた。この居館が角田城の前身であるか、あるいは小田の館ヶ崎城であるかは不明である。田手氏は伊達朝宗六男実綱を祖とする伊達氏一族であり、伊達郡伊達崎城にあってこれを姓とし、のちに宗家と混同されることを避けて田手姓に改めたとされる。しかし宗光はまもなく相馬氏に通じて輝宗に叛し、伊具郡一帯は相馬領となったため、天正四年(1576)以降両氏の間で激しい争奪戦が繰り返された。なお同九年(1581)の合戦では、輝宗嫡男、のちに独眼竜と恐れられた政宗が初陣を飾っている。この抗争は同十二年(1584)まで続き、輝宗によって伊具郡の奪還が果たされている。なお角田城は、宗光の謀叛に荷担せず伊達家中に留まった子の宗時に与えられているが、その宗時は天正九年の合戦で討死している。

 天正十九年(1591)豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達氏は陸奥国南部の所領を召し上げられ、新たに葛西、大崎氏旧領を宛行われた。そこで政宗は居城を所領の中央に位置する玉造郡岩出山城へと移し、家臣の大幅な知行替えを行った。宿敵の相馬氏と国境を接し、また会津郡若松城主蒲生氏郷の所領となった刈田郡とも隣接する角田城は、戦略上非常に重視されることとなった。政宗は従兄弟であり勇武無双の誉れ高い伊達藤五郎成実を安達郡二本松城より移し、亘理郡亘理城主となった片倉小十郎景綱とともに所領南方の守備に当たらせた。この時に角田城は近世城郭として整備が進んだものであろう。しかし文禄四年(1595)、成実は政宗と不和を生じて西国へと出奔し、残った家臣が角田城へ籠城する事件が起こる。政宗は屋代勘解由兵衛景頼に角田城攻撃を命じ、城は焼け落ち、抵抗した成実家臣羽田右馬介ら30余人が討死、成実の妻子も命を落としたという。その後成実は伊達氏に帰参を果たしているが、政宗はこの所業を深く詫び、後年まで悔いたという。

 成実出奔の後、角田城はしばらくの間空城となったが、慶長三年(1598)新たに石川大和守昭光が角田城を拝領、以降石川氏が代々角田を領して明治維新を迎えている。
 石川氏は源有光を祖とし、石川郡三芦城を本拠とした名門で、伊達晴宗四男親宗が修理大夫晴光の養嗣子となり、大和守昭光と改めて相続していた。つまり昭光は伊達輝宗の弟、政宗にとっては叔父であったが、石川氏の所領は白河結城、蘆名、田村、佐竹氏らに囲まれており、絶えず何れかと結んで勢力維持を図らねばならなかったため、伊達氏に敵対することも多かった。しかし天正十七年(1589)ついに伊達氏に従属した昭光は、翌年の奥州仕置で伊達家中と見なされ改易となり、以後伊達氏に仕えることとなった。政宗は叔父である昭光を伊達一門首座として遇し、同十九年(1591)新領土となった志田郡千石城、次いで要衝の角田城主に任じており、その力を頼むところは大きかったものであろう。8千石を以て角田に封ぜられた石川氏は、その後加増、開拓によって2万1千石の大身となり、子孫は江戸時代を通じて仙台藩伊達氏一門筆頭の地位にあった。


 現在は角田高校、角田中学校の敷地となっており、その入口に城跡碑が建てられています。比高約30mの丘陵上最高所に本丸が置かれ、東西約400m、南北約450mの規模を持っていました。江戸時代は城に準ずる要害として存続しましたが、その城下は阿武隈川の水運にも恵まれ、仙南地方の中心として大いに賑わっていたといいます。
 学生の頃、角田高校出身の友人に角田要害について尋ねたことがありましたが、城に全く興味のないヤツでしたので“知らねぇ”の一言で片付けられました。まあそんなもんでしょうね。ちなみにこの角高、プラズマの研究で有名な大槻義彦教授の出身校でもあります。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)

ご意見、ご感想は下記まで。
sakushiro.3946@gmail.com