大崎市
旧志田郡松山町(〜H18)
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上野館
上野館跡解説板。
上野館跡解説板。
【所在地】 大崎市松山千石字松山
【別称】 松山所、松山城
【築城年】 寛永八年(1631)
【築城者】 茂庭良元
【城主変遷】 伊達氏[茂庭氏]
【廃城年】  
【現状】 松山高等学校
 藩政時代の伊達氏所の一。伊達氏家臣で一族の家格であった茂庭氏代々が拝領した。

 寛永八年(1631)伊達氏重臣茂庭周防良元が、居所としていた千石城が手狭であることを理由に下屋敷として築き、慶安四年(1651)子の周防定元に千石城を譲った後は隠居所として居住した。その後千石城三の丸を居所としていた定元が、明暦三年(1657)作事の終了を待って正式に居所を移し、以後明治維新まで茂庭氏1万3000石の居舘となった。

 茂庭氏は伊達氏初代朝宗から仕えた世臣で、源平合戦で白髪を染めて出陣したとされる斎藤別当実盛の一族、蔵人行元を祖としているとされる。建久三年(1192)行元から三代目の実良が伊達郡茂庭村に下向、近隣を荒らし回っていた大蛇を退治したことから乞われて領主となり、その武勲にちなんで鬼庭と姓を変えた。そしてその武勇を伊達氏初代朝宗が聴くに及び、召されて幕下に連なった。
 鬼庭氏が重臣として頭角を現すのは戦国時代の元実の頃で、元実は隠居して露月を号し、甲州武田氏に遊学して軍学を修めた。そして伊達14代稙宗と嫡子晴宗との争い、所謂天文の乱で嫡子良直と共に晴宗方に与して功を挙げ、晴宗方の勝利と晴宗の伊達氏相続に貢献した。その功により鬼庭氏は伊達氏一族の家格を与えられ、良直は晴宗の評定役に登用された。
 鬼庭良直は武勇に優れ、伊達家中随一の勇将として晴宗、輝宗、政宗の3代に仕えた。入道して左月斎と号した良直は、輝宗の死後も若年の主君政宗を盛り立て、73歳の老齢で天正十三年(1585)佐竹、蘆名、相馬、岩城、石川、白川、二階堂氏といった連合軍を相手に人取橋合戦に出陣、政宗より金色采幣を賜り総指揮官を任された。老齢のため甲冑を着けるに耐えず、目立つ黄綿の帽子をつけて奮戦した良直は、終始劣勢に立たされた味方の退却を助けるべく自ら殿軍を努め、政宗の馬前で壮絶な討死を遂げる。
 良直の嫡子綱元は官吏として優れた才を発揮し、伊達家中で奉行職を勤め内政、外交に手腕を揮った。戦国時代末期から江戸時代初期にかけ奥州に強大な軍事力を有した伊達氏は、常に豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者によって警戒され幾度も改易の危機を迎えたが、綱元の中央政界への働きかけによって乗り越えている。これが綱元が政宗の両腕であった片倉景綱、伊達成実と共に伊達の三傑といわれる所以である。当時綱元の手腕は天下に響いており、秀吉は文禄元年(1592)綱元に茂庭姓への改姓を命じている。名は1代で終わるが姓は代々続くものであり、これは秀吉が綱元を家臣に取り立てたいとする下心からであったという。綱元はその後延元を称し、国老として数十年間にわたって奉行職を担い、藩政時代初期の伊達氏家中を支えた。そして良元に職を譲り隠居した後、寛永十四年(1640)92歳の長寿で死去したが、政宗より18歳年長であった延元は政宗の誕生から最期までを見届けた唯一の側近であった。


 千石城の西側、標高約26mの台地上に立地し、東辺八十五間、西辺八十四間、北辺七十二間、南辺六十七間の規模を持つ。東側に幅五間の表門があったとされ、その屋根には鯱が上げられていたという。西側には幅二間半の裏門があり、周囲を最大二丈一尺の土塁が巡っていた。


 現在は松山高等学校校地となっており、さすがに校地には入りづらく正門前の案内板だけ撮影して来ました。やっぱりここに茂庭氏の事を書くから長くなる…。
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千石城
千石城跡解説板。
上野館跡解説板。
【所在地】 大崎市松山千石字入町
【別称】 文覚館、松山城
【築城年】 鎌倉時代か
【築城者】 遠藤盛遠、遠藤盛継、茂庭良元など
【城主変遷】 留守氏[遠藤氏]…大崎氏[遠藤氏]…伊達氏[遠藤氏、石川氏、古内氏、茂庭氏]…
【廃城年】 明暦三年(1657)
【現状】 コスモス園、山林
 平安時代から鎌倉時代頃、文覚上人遠藤盛遠が三の丸付近に住し、その後応永八年(1401)、同地に子孫である遠藤出羽守盛継が縄張、造営したものと伝わるが確証はない。

 盛継は関東公方足利満兼によって志田、玉造、加美三郡奉行人に任ぜられて松山に居住、初め留守氏、次いで大崎氏に属して大いに武威を誇ったが、伊達氏が勢力を拡大するとそれに服属、千石城は鳴瀬川を挟んで大崎領と接する最北限の拠点として重用された。天文三年(1534)大崎家中で内訌が生じ伊達氏が介入した際には、城主遠藤光定が古川城攻撃に参陣しており、また天文十四年(1586)大崎氏家中に再び生じた内訌をきっかけとした中新田合戦では、伊達勢の拠点として軍勢が集められ城主遠藤高康も参陣している。さらに大崎氏改易後の天正十八年(1590)大崎葛西一揆においては、豊臣秀吉より一揆鎮圧を命ぜられた伊達政宗が入城、ここから中目城師山城を攻め落として宮沢城
高清水城を降伏せしめ、佐沼城寺池城へと軍を進めている。

 一揆鎮圧後、大崎、葛西氏旧領が伊達政宗に与えられると、遠藤氏は登米郡
石森館へと所替となり、天正十九年(1591)石川郡三芦城より石川大和守昭光が城主となった。その後慶長三年(1598)には古田内匠重直、同八年(1603)には赤萩城より所替で茂庭周防守良元の居所となった。
 良元は初め千石城を修築して居住したが、寛永八年(1631)手狭であることを理由に城下に上野館を築造して移住、慶安四年(1651)に隠居した後もそこに住した。そして良元死後、千石城三の丸にあった子の定元によって、明暦三年(1657)正式に上野館が居館と定められたため、以降千石城は使用されなくなり三の丸に留守居として家臣1名が置かれるのみとなったという。


 標高約80m、東西約250m、南北約600mの規模を持つ、領内でも屈指の山城であった。尾根上に細長く曲輪を連続させた連郭式中世山城で、各曲輪間を空堀で区画している。


 訪問時はいつものことながらあまり時間もなく、ズルして車で侵入したため逆にちょっとコワい目に遭いました(>_<; いや、ずーっと車で進入出来るし、未舗装ながら悪路でもないんですが…引き返せないんです(^-^; なので端から端まで走ってきましたが、だからといって遺構をじっくり見られたわけでもない。やっぱりお城は自らの脚で歩かないとイカンですな。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)

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