大崎市
旧古川市(〜H18) - 旧栗原郡長岡村、宮沢村(〜S25)、清滝村(〜S29) |
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雨生沢城 |
雨生沢城跡遠望。 |
【所在地】 |
大崎市雨生沢字野崎
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
雨生沢氏か |
【城主変遷】 |
雨生沢氏、岡氏、野崎氏 |
【廃城年】 |
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【現状】 |
館明神、宅地、畑地 |
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城主は雨生沢将監で、後に岡左衛門が住したとされる。また一説には野崎美濃の居舘ともされる。
高さ約10mの台地がその城址と伝わっており、東西約70m、南北約60mの平場北西部に現在館明神が祀られています。神社の背後に空堀跡が認められ、それが唯一の遺構となっています。「仙台領内古城・館」では、神社のある丘が主郭、その南西の民家付近が二郭となる、連郭式平城であったろうと推察されています。
館明神のやたら簡素な様子、そしてそこに至るまで明らかに私有地である畑の間を通らねばならない緊張感は、マイナーお城マニアの醍醐味ですね。当然オーナーであろう民家からの見通しは非常に良いです、マニアは礼儀正しくありましょう。
なお、勿論不勉強なわたしが雨生沢氏や岡氏、野崎氏の出自を知る由もありません。大崎氏家臣なんでしょうね…? |
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鴻ノ巣館 |
鴻ノ巣館跡付近の小祠。 |
【所在地】 |
大崎市清水沢字鴻ノ巣
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【別称】 |
清水沢在所 |
【築城年】 |
元和九年(1623)か |
【築城者】 |
松前氏か |
【城主変遷】 |
伊達氏[松前氏] |
【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地、稲荷神社 |
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仙台藩主伊達氏在所の一。伊達氏家臣で準一家の家格であった松前氏が明治維新まで所領したという。
仙台松前氏は、松前藩初代藩主松前慶広七男松前安広が元和九年(1623)伊達政宗に請われて伊達氏家臣となり、栗原郡清水沢と江刺郡小田代にて1000石(のち2000石)を拝領したのが始まりとされる。安広は寛永六年(1629)白石城主片倉重長の娘を娶ったことから、天和二年(1682)に清水沢に移るまで片倉氏の所領である刈田郡長袋在所に居住したという。正徳四年(1714)には居館を伊具郡藤田在所へ移しているため、当地に居住したのはその間の期間であろうか。
100m四方のお屋敷と称される丘陵を中心とし、その周囲を内堀、外堀が巡っていたとされる。付近には表小路、裏小路、御門、送り屋敷、札場など、ゆかりの地名が残る。また稲荷神社は松前氏の氏神だったという。
新寺館の東南1kmに立地していますが、正直なところ場所が違う気がする…(^-^;
江戸時代の屋敷地だとすると、すぐ南側に集落が広がっていますのでそちらかな〜?大体の場所は目処が付きましたので再訪したいと思っています。いつになるかは相変わらず不明ですが。 |
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小野城 |
小野城跡標柱。 |
【所在地】 |
大崎市小野字普月館
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【別称】 |
内館城、大崎城、小野木古館、小野御所 |
【築城年】 |
室町時代 |
【築城者】 |
大崎家兼 |
【城主変遷】 |
大崎氏 |
【廃城年】 |
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【現状】 |
梅香院 |
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大崎五御所の一。築城年代は明確でないが、大崎氏初代家兼が居城名生城とともに築いた重要な拠点の一つであったとされる。代表的な城主として大崎義宣が挙げられるが、この義宣は伊達稙宗の次男であり、大崎義直(その兄高兼とも)の養子となった人物である。
室町時代、奥州管領、奥州探題職の権威を背景に大崎五郡に勢力を拡大した大崎氏であったが、戦国時代になると徐々にその勢いも衰えを見せ始めた。天文三年(1534)重臣であった新井田城主新井田安芸頼遠が謀叛すると、氏家、古川、高泉、一迫氏ら重臣もこれに同心、家中を二分する争いとなった。当主大崎義直は自力での鎮圧を断念、伊達稙宗に救援を依頼してこれを鎮めるが、稙宗は救援の見返りとして次男小僧丸を養嗣子として送り込み強引に家督を譲らせた。この小僧丸が大崎義宣であり、これによって大崎氏、伊達氏の力関係は全く逆転することとなった。
伊達稙宗は多くの子女を利用して近隣諸大名家へ入嗣、婚姻を結び、その血縁を利用して勢力を拡大した。義宣の大崎氏入嗣も同様の手段であり、義宣を大崎氏当主に立てることでその実権を握り、さらに勢力を拡大しようと目論んでいたのである。しかし他家への入嗣、婚姻は同時に有能な家臣を失うことでもあり、宗家そのものの弱体化を招く危険も孕んでいた。そして天文二年(1542)、稙宗三男実元の越後国守護上杉定実への入嗣が決定すると、嫡男晴宗はこれに反発、有力家臣の桑折貞長、中野宗時らの協力を得て稙宗を伊達郡西山城へ幽閉した。ほどなく稙宗は小梁川宗朝らによって救出され、晴宗に対抗すべく縁戚を結んだ諸大名に救援を求めたため、南奥羽全体を巻き込む大乱となった。
この天文の乱において、大崎義宣は父稙宗方に与するも、結果は晴宗方の勝利で終結する。晴宗に家督を譲り、伊具郡丸森城に隠居した稙宗にもはや実権はなく、稙宗という後ろ盾を失った義宣もまた大崎家中で孤立してゆく。そしてついに天文十九年(1550)養父である義直の圧迫が強まると、弟ともいわれる葛西晴胤を頼って小野城を出奔する。しかしその道中、桃生郡辻堂において僅か21歳とも25歳ともいわれる若さで殺害されたという。 |
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新寺館 |
新寺館跡(泉蔵寺)。 |
【所在地】 |
大崎市清滝字清水沢
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
泉蔵寺、山林 |
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築城年代、築城者、詳細ともに不明の館。
「仙台領内古城・館」に記載があり、泉蔵寺裏手の墓地内に遺構が見られるとある。墓地中心部に高さ約2m、東西50m、南北80m、周囲を幅3m、深さ1mほどの堀が巡らされた台地があり本丸と推定されている。また寺院の北面に一条、南面に二条空堀跡が確認出来るという。
訪問した際、ちょうど本堂周囲で何やら工事が行われており、詳しく見て歩くことが出来ませんでした。がっかりしたわたしはお寺の南面にあるという空堀の確認もせずに立ち去ってしまい、わたし的には謎の城館です。 |
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宮沢城 |
宮沢城本丸土塁及び標柱。 |
【所在地】 |
大崎市宮沢字城内
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【別称】 |
鵜ヶ城、宮沢要害 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
岩崎氏か |
【城主変遷】 |
(藤原氏)…(平氏)…大崎氏[葛岡氏、宮沢氏、岩崎氏]…木村氏[岩崎氏]−伊達氏[後藤氏、上郡山氏、長沼氏] |
【廃城年】 |
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【現状】 |
鹿島神社、耕作地、宅地 |
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藩政時代の仙台藩伊達氏の要害の一。
平安時代には藤原秀郷が拠り、その後長岡郡の郡司平資幹が住したとされる。南北朝時代以降に大崎氏の勢力下となった後は家臣葛岡太郎左衛門、その後宮沢遠江守あるいは岩崎讃岐守美久(義久)が居城したとされるが確証はなく、不明な点が多い。
天文三年(1534)新井田城主新井田安芸守頼遠の叛乱に端を発する大崎内訌が起こると、大崎義直は宮沢城で軍勢を整え、泉沢城に拠る頼遠を攻めたという。また大崎氏滅亡後、城主岩崎美久は新領主となった木村吉清に仕えるも、程なくして起こった大崎葛西一揆勢に与して宮沢城に籠もった。美久はその子主水、正助、万右衛門のほか、岩崎伯耆守、鎌田彦右衛門、飯塚次郎右衛門、芳賀蔵人らとともに、一揆鎮圧にやってきた伊達勢に激しく抵抗、その後和議によって落城したという。
一揆鎮圧後、大崎氏旧領は伊達氏の所領となり、城に準ずる要害として重視された宮沢城には後藤康之が一時居住、その後上郡山氏、長沼氏が住した。長沼氏は一時胆沢郡衣川へ所替となるが、延享四年(1747)長沼致信が再び宮沢へと封ぜられ、以後明治維新に至るまで1500石を以てこの地にあった。
往時は東西300m、南北350mほどの規模を持ち、本丸、二の丸を中心として周囲に下中屋敷を配し、それぞれの周囲を同心円状に水濠で囲んだ平地の水城であった。現在そのほとんどは耕作地となっており、周囲より若干高い本丸跡、及び八幡神社東側に遺る本丸東側土塁だけが往時を偲ばせている。
なお本丸南西に所在する光岳寺付近は西館と呼ばれる郭で、宮沢城の出城であったという。
伊達氏要害の中で、ここまで雰囲気の失われたところはないのでは…と思うほどの何もなさ。湿地帯に築かれた平城形式の城跡でも、近世まで使われたならもうちょっと保存されていそうなモノですけどねー。恐るべし耕地整理。 |
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明神館 |
明神館跡遠望。 |
【所在地】 |
大崎市北宮沢字二枚橋
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
雨生沢氏…岡氏…(岩崎氏) |
【廃城年】 |
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【現状】 |
館神社 |
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築城年代、築城者は不明だが、雨生沢将監、その後岡左衛門が居住したと雨生沢城と同様の伝承が残る。また大崎氏家臣の宮沢城主岩崎氏が一時居住したとも伝わっている。
館神社の鎮座する台地がその名の通り館跡である。神社の建つ高さ約30m、東西約50m、南北約70mの楕円形の平場が本丸跡とされ、神社脇にそびえる桜の老木が名木として知られている。本丸周囲は断崖となっているが、北西側には段が見られ、さらに本丸西側には道路を隔てて東西110m、南北70m、現在は畑地となっている二の丸が置かれている。 |
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【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981) |
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