大崎市
旧志田郡三本木町(〜H18)
トップさくらとおしろ宮城県大崎市蟻ヶ袋館
蟻ヶ袋館
蟻ヶ袋館跡土塁。
蟻ヶ袋館跡土塁。
【所在地】 大崎市三本木蟻ヶ袋
【別称】 高館
【築城年】  
【築城者】 熊谷氏か
【城主変遷】 大崎氏[熊谷氏]…
【廃城年】  
【現状】 山林、宅地
 築城年代、築城者は不明。天正年間(1573-92)の館主として大崎氏家臣熊谷玄蕃の名が伝わる。

 天正十六年(1588)の大崎合戦で伊達勢は大敗し、総大将の一人であった泉田安芸守重光は、長江勝景入道月鑑らとともに敗走の末新沼城へ押し込められてしまう。その後黒川晴氏入道月舟の取り成しにより、両将が人質となることで城兵は助命されたが、その際に抑留されたのがこの蟻ヶ袋館であった。
 なお抑留中には、大崎氏分家である出羽国山形城主最上義光によって重臣延沢能登守満延が派遣され、両将に対して伊達氏からの離反が働きかけられている。この説得に応じた長江月鑑斎は程なく開放され自領の桃生郡小野城へと帰還したが、拒否し続けた泉田重光は旭館(小野田城)、さらに山形城へと移送され、半年後に漸く開放されて居城鵜ヶ崎城へと帰還している。

 また蟻ヶ袋館主熊谷玄蕃は、奥州仕置により大崎氏が改易となった後に大崎葛西一揆に加わったものとみられ、天正十九年(1591)志田郡下伊場野で討死したと伝えられている。


 鳴瀬川南岸、4号国道との間の比高約20mほどの館山と称される丘陵頂部の東西約70m、南北約40mの楕円形の平場が主郭となる。丘陵北面は鳴瀬川流路を臨む絶壁、国道側となる南麓は宅地となっており現在も子孫が住している。さらにその南から東側にかけては館沢、館堀と称される往時の水堀跡が見られ、西側には南方へ延びる土塁が見られるが、国道によって断ち切られている。なお国道南側、海渡神社が鎮座する丘陵も城域とみられ、空堀で画された南北2つの平場が見られる。


 国道沿いなのでアクセスは楽なんですが、訪問時は車の駐停車場所になかなか苦労します(^-^; 国道走行中でも土塁の断面がはっきりと見え、以前はその土塁上に標柱が立てられていたと思いますが、久し振りに訪問したらなくなってましたねー。
トップさくらとおしろ宮城県大崎市音無城
音無城
音無城跡標柱。
音無城跡標柱。
【所在地】 大崎市三本木音無舘下
【別称】  
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】  
【廃城年】  
【現状】 山林、湯殿権現社
 築城年代、築城者、城主など詳細不明。


 比高約50mほどの丘陵上に所在し、頂部に湯殿権現社が祀られる約50m四方の平場があるが、遺構も特に認められないという。頂部からは大崎平野、奥羽山脈を望まれるため、紫桃正隆氏は「仙台領内古城・館」で古代から中世にかけての諸族の物見台であろうかと著述している。


 何かしらの痕跡でも見られれば良いなーと思って訪問したところ、取り敢えず標柱があったのでいぬにわんわん吠えられながら撮影。訪問時は資料を一切持っていなかったので、実際は紫桃氏が著述している湯殿権現社までは詣でてません(^-^;
 ちなみに標柱の場所はポケモンのジムになってました。
トップさくらとおしろ宮城県大崎市桑折城
桑折城
桑折城跡遠望。
桑折城跡遠望。
【所在地】 大崎市三本木字桑折、蛇沼山
【別称】 鶴館
【築城年】 天文年間(1532-54)か
【築城者】 渋谷相模守か
【城主変遷】 大崎氏[渋谷氏、飯川氏]…木村氏−伊達氏[柴田氏]
【廃城年】 文禄年間(1592-95)頃か
【現状】 館山公園
 天文年間(1532-54)から天正年間(1573-91)にかけ、大崎氏家臣渋谷(野木、八野木、八森とも?)相模守が居住した。なお渋谷相模守は、大崎合戦において伊達氏を撃ち破った知将、黒川安芸守晴氏入道月舟の叔父とされる。

 桑折城が歴史の表舞台に大きく登場するのは、天正十六年(1588)大崎家中の内訌に端を発する大崎氏と伊達氏の争い、所謂大崎合戦においてである。大崎家中で反主流派となった岩手沢城主氏家弾正吉継救援を名目に、伊達政宗は叔父の留守政景、重臣泉田重光を大将とする軍勢を大崎領へと侵攻させた。対する大崎義隆は中新田城に籠城、師山城、桑折城を防御拠点として伊達勢に備えた。しかし桑折城に大崎方の加勢として入っていた黒川晴氏は、天文年間の当主景氏以降伊達氏に服属しており、また伊達勢の大将に任ぜられた留守政景の舅でもあった。ここで晴氏が静観の構えを見せたことで伊達勢は桑折城下を素通りし、その後の進軍経路に関して大将同士の意見に食い違いが生じた。軍議の結果、軍勢を二手に分け、重光は大崎平野を突き進んで中新田城下へ攻め寄せ、政景は支城である師山城攻略へ向かうこととなった。しかしその両城とも士気は高く、大軍を相手に奮戦して一歩も引かず、ついに政景は師山城攻めを諦め重光と合流すべく中新田城下へと軍を進めた。結果的にはこれが大きな失策であった。この伊達勢の動きを予測していたものか、この機に晴氏は突如大崎方としての態度を鮮明にし、囲みを解かれた師山城兵と共に留守勢の後背を襲ったのである。その追撃をしのぎつつ何とか合流を果たした伊達勢ではあったが、今度は中新田城兵と桑折、師山城兵に挟撃される形となり、逃げ込んだ新沼城で逆に籠城する羽目に陥ってしまう。止むなく政景は舅である晴氏を通じて城兵の助命を嘆願、泉田重光、長江勝景入道月鑑の身柄と引替に開放され、この戦いは大崎氏の大勝利という形で幕を閉じた。

 この大崎合戦では惨敗を喫した伊達氏であったが、その後結ばれた和議は大崎氏の伊達氏への服属に他ならなかった。その後大崎氏は天正十八年(1591)豊臣秀吉による奥州仕置で改易となり滅亡、旧大崎領は木村吉清の支配となった後伊達政宗に与えられた。政宗は居城を岩出山城に定め、桑折城には文禄二年(1593)柴田城より柴田宗義が移封され一時期居城したとされるが、間もなく廃城になったものと思われる。なお宗義の女は政宗の側室阿山方で政宗7男の村田城主宗高の母となり、また柴田氏は天和元年(1681)宗意の代に旧領である柴田城に復している。


 鳴瀬川南岸、標高約60m、比高約40mの丘陵を利用した城郭で、中新田、松山を結ぶ街道と奥州街道が交わる要衝に築かれていた。東西400m、南北100mほどの規模を持つ北郭を中枢としており、本丸はその東端となる約30m四方の平場であると考えられている。その平場の下段には北側、西側へと延びる平場があり、西側平場から堀切を挟んで現在展望台のある二の丸へと続く。また北郭の南東100mほどには南郭があり、15m四方ほどの平場が確認出来るという。


 現在は館山公園として整備され、公民館駐車場から散策路を通って二の丸、本丸まで楽に登れます…が、わたしは何を思ったか本丸北東部の斜面から登りました。いや、館山公園入口とあったから間違いではなかったのですが、膝丈くらいまである下草が刈られていなかったんです。別に草くらいもちろん問題ないんですけど、前夜雨が降っていましてね…、スニーカーは当然のこと、ズボンは膝上までびしょ濡れとなりました。でも鳴瀬川を挟んで大崎平野を一望出来る素晴らしい景色が眺められました。
 なおこの館山公園、桜の名所としても知られている様です。さくらながら桜には全く縁のないこのサイトには関係ない話ですけどね…(-_-)ゞ
トップさくらとおしろ宮城県大崎市斉田館
斉田館
斉田館跡標柱。
斉田館跡標柱。
【所在地】 大崎市三本木斉田桜舘
【別称】 桜館
【築城年】  
【築城者】 堤根氏か
【城主変遷】 安部氏[安蘇氏]…大崎氏[堤根氏]…
【廃城年】  
【現状】 山林
 築城年代、築城者は不明、館主として大崎氏家臣堤根肥前、同豊前の名が伝わる。また伝承では、前九年合戦の際に安倍氏家臣安蘇吉春が陣所としたともいわれる。


 鳴瀬川南岸、色麻町との境界近くの比高約50mほどの舌状台地上に所在し、館跡南側を東西に通じる156号県道沿いに標柱が立てられている。現在は主郭平場に高圧線鉄塔が建てられており、その管理用の登路が標柱西側についている。
 主郭は直径約40mほどの円形の平場で、その周囲を二重の空堀が巡らされており、その主郭を中心に東西の尾根上には平場が連なる。大手口は北面にあり鳴瀬川に通じていたとされるが明瞭ではない。小規模ながら遺構が比較的良好に保たれた城館跡である。


 画像の標柱はご覧の通り民家脇にあるのですが、撮影している間じゅうずっといぬにわんわんわんわん吠えられておりました(^-^;

トップさくらとおしろ宮城県大崎市坂本城
坂本城
天性寺墓地の坂本城跡土塁と主郭部遠望。
天性寺墓地の坂本城跡土塁と主郭部遠望。
【所在地】 大崎市三本木坂本舘山
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 坂本氏か
【城主変遷】 大崎氏[坂本氏]…
【廃城年】  
【現状】 山林、宅地、天性寺
 築城年代、築城者は不明、城主として大崎氏家臣坂本土佐入道の名が伝わる。


 鳴瀬川南岸、4号国道との間に所在する、天性寺境内地を含む比高約30mほどの丘陵上に構築されている。主郭は天性寺東側、現在山林となっている箇所であり、南側宅地脇に屈曲した登路がついている。頂部は東西約100m、南北約70mほどの2段の平場となっており、その西端には土塁状の段と現在は舗装された道路となっている空堀が続き、また最高所となる東側には直径約40mほどの円形の平場が見られる。鳴瀬川に臨む北面には土塁、堀が残り、国道側となる南面は腰曲輪が数段続き麓へと落ちる。
 主郭部西側は空堀を挟んで現在天性寺境内、墓地となっており、墓地南側には土塁と腰曲輪が見られる。


 国道沿いに所在し、また天性寺駐車場もかなり広いのでアクセスは楽です。しかしながら標柱や案内板などの設置はなく、宅地脇からの進入となるのでマナーは守らなきゃですねー。
トップさくらとおしろ宮城県大崎市千貫森館
千貫森館
千貫森館跡標柱。
千貫森館跡標柱。
【所在地】 大崎市三本木新町
【別称】 伊賀城、千貫館
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】 大崎氏[早川氏]…
【廃城年】  
【現状】 千貫森桜公園
 築城年代、築城者は不明。後に大崎氏家臣早川民部が居館した。

 なお“千貫森”の由来は以下のように伝わっている。
 往時広長村に住んでいた助左衛門なる者が飼っていた馬は、常に寝ているばかりで立つこともなかったため当地に捨て置かれた。しかしこの馬がにわかに立ち上がり水を渡ると、あたかも平地を行くが如き有様であったため、大いに驚いた助左衛門は改めて飼い繋いでいた。するとその馬は源頼朝御家人佐々木四郎高綱の目に留まり、高綱は値千貫と褒め称えて買い取ったため、千貫森の地名が残ったという。なおこの馬こそが名馬として名高い生喰(池月)であった。


 現在は千貫森桜公園となっており、丘陵丁部に主郭部となる堀で切られた南北2つの平場と、北西、北東の尾根筋にそれぞれ曲輪が配されている。
 主郭部北側の平場には浄水施設が建てられているが、南側の平場との間の堀切は見応えがあり、また各平場の周囲には数段の段築が見られる。また現在標柱が建てられている北西の平場からは大崎平野、鳴瀬川の流れが一望出来、物見として使用されたものであろう。


 道の駅三本木から至近なので、車中泊後一発目の訪問に最適な城館です(笑)
 仕事の合間に寄ったものか、野球観戦時の車中泊後に寄ったものか忘れてしまいましたが、それから数年経って漸く再訪、追加の運びとなりました(-_-; それほど見所のある、技巧的な城館という訳ではないですが、ここから見る大崎平野、鳴瀬川の流れはなかなかのものだと思います。

 なお別称として伝えられる伊賀城…。紫桃正隆氏も「仙台領内古城・館」で伊賀城(千貫館)として著述されていますが、三本木伊賀はここより南側に位置しており、氏の著述の内容もこの千貫森館の遺構とは大きく異なり、場所も違います。紫桃氏が著述している場所には未訪問のためはっきりとは申せませんが、ここで紹介している(標柱が建てられている)千貫森館の位置は誤りか、もしくは千貫森館と伊賀館は別城館である可能性があります。
 うーん、取り敢えず紫桃氏の著述にある伊賀城(千貫館)に行ってみてからかな…。
トップさくらとおしろ宮城県大崎市新沼城
新沼城
新沼城跡現況。
新沼城跡現況。
【所在地】 大崎市三本木新沼字下沖
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 新沼氏、遠藤氏か
【城主変遷】 大崎氏[新沼氏、遠藤氏]…伊達氏[新沼氏]…
【廃城年】  
【現状】 稲荷神社、宅地、耕作地
 往古は東要害、西要害に分かれていた様で、前者には遠藤掃部、後者には新沼甲斐守(上野甲斐守とも)が居住していたとあり、ともに大崎氏家臣であった。天正十六年(1588)大崎合戦の際には、城主新沼甲斐守が伊達氏傘下にあった千石城主遠藤出羽守の婿であったことから伊達氏に与している。

 この大崎合戦で伊達氏は軍勢を二つに分け、留守政景率いる一隊が師山城を、泉田重光率いる一隊が中新田城を攻めたが、それぞれの城兵によって激しい抵抗を受けた。政景は重光の軍勢と合流を図り、師山城の囲みを解きいったん退くが、そこでそれまで静観の構えを見せていた桑折城守将黒川月舟斎晴氏、及び囲みを解かれた師山城兵によって後背を襲われ窮地に陥った。同様に重光の軍勢も中新田城を攻めあぐんでおり、政景と合流したところが南方の鳴瀬川に架かる橋を破壊されて混乱に陥り、この新沼城に押し込められ逆に籠城する羽目となってしまう。まんまと形勢を逆転させた晴氏だったが、伊達勢の大将留守政景が女婿であった縁もあり、泉田重光、長江月鑑斎の身柄と引替に城兵の助命嘆願を聞き容れている。


 多田川、鳴瀬川に囲まれた平城で、当時はいくつもの水濠に囲まれた要害であったと想像出来るが、現在周囲は水田、宅地と変わりその面影は失われている。稲荷神社境内地周辺の東西120m、南北100mほどの箇所が本丸跡と伝わり、神社脇に標柱が建てられているが、特にそれを裏付けるものもない。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)

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