岩沼市
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鵜ヶ崎城
鵜ヶ崎城跡標柱。
鵜ヶ崎城跡標柱。
【所在地】 岩沼市栄町1
【別称】 岩沼城、岩沼陣屋、岩沼要害、武隈館
【築城年】 天暦七年(953)か
【築城者】 源重之か
【城主変遷】 源氏…伊達氏[泉田氏、石田氏、遠藤氏、屋代氏、奥山氏、伊達氏、古内氏](1558-1660)−田村氏(1代・1660-81)−伊達氏[古内氏](1681-1869)
【廃城年】 明治二年(1869)か
【現状】 鵜ヶ崎公園、市街地、宅地
 藩政時代の仙台藩伊達氏要害の一。一時岩沼藩が成立した際にはその陣屋となっている。

 古くは武隈館と呼ばれ、天暦七年(953)頃に源重之によって築かれたとされるが確証はなく、史実がはっきりするのは永禄年間(1558-69)伊達氏の所領となり泉田安芸守重光が城主となってからである。
 泉田氏は須賀川城主二階堂氏一族とされ、会津郡黒川城主蘆名氏に臣従して同郡泉田城主であったが、天文九年(1540)駿河守行胤が蘆名盛舜との不和から合戦におよび敗走、西山城主伊達稙宗を頼って伊達郡へと落ち延びたという。以後泉田氏は伊達氏家臣として数々の合戦に従軍、その信任も厚かったと見え、行胤の曾孫安芸守重光は8千石を以てこの鵜ヶ崎城主に任ぜられ、天正十六年(1588)大崎合戦では結果的に大敗を喫してはいるが留守政景とともに総大将を任されている。

 天正年間(1573-92)末期に伊達氏の所領がほぼ確定し、慶長六年(1601)仙台城が築かれ仙台藩の府城となると、その後も鵜ヶ崎城は岩沼要害と称されて存続した。その邑主は度々交代となり、泉田重光以降天正十三年(1585)より石田将監与純、文禄三年(1594)より遠藤兵部大夫、慶長五年(1600)より屋代勘解由兵衛景頼、慶長七年(1602)より奥山出羽守兼清以下3代、寛永六年(1629)より伊達兵部少輔宗勝、同十三年(1636)より古内主膳重広以下2代と目まぐるしく変遷した。
 万治三年(1660)には、仙台藩2代藩主伊達忠宗三男隠岐守宗良が中世田村郡三春城主であった田村氏の名跡を継ぎ、岩沼3万石を分与されて岩沼藩を立藩、その陣屋となっている。しかし岩沼藩は延宝九年(1681)2代因幡守建顕が一関陣屋へと移封となり、一関藩を再興するにあたって廃藩となった。
 再び仙台藩領となると、先に邑主であった古内重広の子酒造祐重直が拝領、以後代々古内氏が城主を務め、8代を経て明治維新を迎えている。

 明治二年(1869)明治政府によって召し上げられた岩沼要害は、同七年(1874)に建物が民間に払い下げられた。その後同18〜20年にかけて鉄道敷設工事が行われ、現在のJR東北本線岩沼駅が置かれたため城地はほぼ完全に破壊され、現在は駅に隣接する宅地の中に公園として一部が残存しているのみである。なお丘陵の切り崩しなども行われているため、旧城のどの位置に当たるかは不明であるという。


 現在鵜ヶ崎公園となっている丘陵地が中世の鵜ヶ崎城跡であり、藩政時代の岩沼要害はJR岩沼駅付近が中心だった様です。鵜ヶ崎公園のゲートボール場脇にポツンと標柱が立てられておりますが、解説などは特に記載されていません。沼館愛三氏は、往時は阿武隈川と沼沢地に囲まれた城館で、南方の敵に対して非常に固い城であったと著述しています。周囲が完全に市街地となってしまった現在、その面影は残念ながら感じられません。
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下野郷館
下野郷館跡碑、標柱。
下野郷館跡碑、標柱。
【所在地】 岩沼市下野郷
【別称】 矢野目足軽屋敷
【築城年】  
【築城者】 奥山氏か
【城主変遷】 奥山氏…伊達氏(1601-1869)
【廃城年】 明治二年(1869)
【現状】 宅地
 築城年代、築城者は不明、初め奥山民部なる人物が居住していたが、伊達氏よって攻め滅ぼされたという。

 その後慶長六年(1601)、伊達氏が岩出山城から仙台城へ居城を移した際、伊達氏直属の鉄砲足軽である矢野目足軽が当地に館を構えた。矢野目足軽は初め米沢城下矢野目に居住していたが、天正十九年(1591)豊臣秀吉の奥州仕置で伊達政宗が岩出山城へ居城を移した際、従者として岩出山へ移住し、その後さらに当地へと移住した。矢野目足軽がこの地に置かれたのは、足軽とはいえ伊達氏直参として政宗の信望が厚かったため、かつ海防の任に当たるという重要な役割を命ぜられたからであるという。
 矢野目足軽は当初230名で組織されていたが、享保七年(1722)柴田郡川崎の伊達織部へ30名、桃生郡寺崎の黒沢要人に20名が預足軽として移され、以来180名の足軽を18名1組として十組の大番隊に属させ、一番方から十番方に分けて各番方に番頭を置き、その上の大番方が全体を統率した。

 明治二年(1869)幕藩体制が終わりを告げると永の暇を賜り卒族となり、翌三年に帰農を命ぜられる。その後当地を離れる者も出て、同五年には156名となっている。


 現在は住宅地となっており、下野郷駐在所前に石碑、標柱が建てられている。館跡の周囲には水掘が現在も確認出来、一番方から十番方という隊号が地名として残っているという。


 以前は亘理町の実家から仙台方面へ向かう際によく利用する10号県道塩釜亘理線沿に所在していたので、4号国道を避ける際にはよく目の前を通過していました。現在は県道が変わってしまったのであまり通らなくなっちゃったなー。石碑の建てられている場所は北辺中央だったので、旧県道が北辺を南北に通じている形でした。南は五間堀川、西は葉の木堀排水路と志賀沢川が交差する辺りまでの広い範囲が屋敷地だった様です。

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)

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