一関市
旧一関市(〜H17)
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一関城
一関城本丸跡(田村神社)。
一関城本丸跡(田村神社)。
【所在地】 一関市釣山
【別称】 高崎城、釣山城
【築城年】 大同年間(806-10)
【築城者】 坂上田村麻呂、安倍頼良、小野寺氏、留守政景ら
【城主変遷】 安倍氏…葛西氏[興田氏、高崎氏、小野寺氏など](1189-1590)−木村氏(1590-91)−伊達氏[留守(伊達)氏](1604)
【廃城年】  
【現状】 釣山公園、田村神社
 創建は伝承の域を出ないが、大同年間(806-10)坂上田村麻呂の蝦夷討伐の際に築かれたとも、平安時代末期奥州に勢力を拡大した俘囚の長、安倍頼良(頼時)が砦を築いたものともいわれる。また藤原秀衡が平泉を中心に奥羽地方を統治した頃には堰があったとされ、それが一関の地名の由来ともいわれている。

 初の征夷大将軍である坂上田村麻呂は、蝦夷討伐の折にこの地を高崎城と命名して陣を張り、達谷窟の悪路王と戦ったといわれる。下って安倍氏の時代には、安倍頼時の子で、頼時の弟である叔父良照の養子であった磐井五郎家任が居住したとされる。しかし家任は前九年の役においては当地を逐われ、養父良照の守備する小松柵に籠もったとされており、当地は源頼義、義家父子の陣場となったという。なお頼義は、この城から鶴が舞い立つのを見た後に大勝利を得たため鶴舞城と名付け、それが後に転じて釣山と呼ばれるようになったともいわれている。

 前九年、後三年合戦の後は、平泉を拠点とした奥州藤原氏の勢力下となる。しかし文治五年(1189)、源頼朝の侵攻により藤原氏が滅亡すると、その奥州合戦で功を挙げ、頼朝より奥州総奉行に任ぜられた葛西清重の所領となった。葛西氏は豊嶋氏の流れを汲み、石巻城寺池城などを拠点として現在の岩手県南部から宮城県北部一帯に勢力を拡大する。一関城には興田氏、高崎氏が居城、その後天正年間(1573-92)には小野寺伊賀守道照が居城していたとされる。小野寺氏は寺池城主であったが、葛西晴胤が居城を石巻城から寺池城へと移すに当たり、道照を一関城へと移封したのである。しかし戦国時代までその命脈を保った葛西氏だったが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城征伐に不参であったため所領没収となり、その旧領は木村吉清に与えられ、さらに大崎葛西一揆を経て伊達政宗に与えられた。

 政宗は慶長九年(1604)信任の厚い叔父の留守政景を磐井郡黄海城から一関城へ2万石を以て封じ、政景は一関城北東麓に居館を造営、以後政治の中心はこちらへと移った。その後万治三年(1660)、政宗十男であり仙台藩4代藩主綱宗の叔父、伊達兵部大輔宗勝が3万石を分知されて一関藩が立藩されると、以降その支配の中心は一関陣屋へと移っている。

 古代から中世にかけての一関城は釣山に築かれ山城であり、近世にはその北東麓に築かれた一関陣屋を指している。釣山中央部の山頂、東西約80m、南北約30mの平場が本丸であり、現在は田村神社が鎮座している。本丸西側にはノロシ台、物見に使われたアズマ屋が見られ、北側には台地が延びて二の丸、三の丸を構成する。釣山の北東に「城内」の地名が残り、一関陣屋は現在の裁判所周辺であった。


 一関城………、いやぁ、よく憶えてねぇなあ(笑) 岩手県のお城は概ね岩手出張時に駆け足で訪問したところばかりで、特に県南はあまり行ってなかったんですよねー。4泊5日の行程で岩手、青森、秋田の主要都市を廻るには、初日に盛岡に入らないとキツかったんです。その後も仕事やら野球観戦やらで何度か訪問しているものの、"ついで"が多いものでしっかりと見ていない印象。ダメですねー。
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一関陣屋
一関陣屋跡。
一関陣屋跡。
【所在地】 一関市城内
【別称】 一関城
【築城年】 慶長九年(1604)
【築城者】 留守(伊達)政景、伊達宗勝、田村建顕ら
【城主変遷】 伊達氏[留守(伊達)氏](1604-1516)…伊達氏[一関伊達氏](1658-1660)−一関伊達氏(1代・1660-71)…田村氏(11代・1681-1869)
【廃城年】  
【現状】 盛岡地方裁判所一関支部
 藩政時代の仙台藩伊達氏要害の一。一関藩が成立した後はその陣屋となっている。

 伝承を含め、当地には古代より周辺支配の拠点となった一関城が所在したが、慶長九年(1604)伊達氏家臣留守政景が2万石を以って西磐井郡黄海城より移封となると、政景によって一関城北東麓に居館が造営され、以後政治の中心はこちらへと移った。そして街道、城下を整備して現在の街並の基礎を築いた留守氏だったが、元和二年(1616)政景の子宗利が胆沢郡金ヶ崎城へ移封となり、仙台藩の蔵入地となった。

 万治元年(1658)伊達政宗十男であり仙台藩伊達氏2代忠宗の異母弟、兵部大輔宗勝の所領となり、さらに同三年(1660)宗勝が3万石の内分分知を受けて一関藩が立藩するとその陣屋となった。
 宗勝は政宗の末子だが、その資質を強く受け継いだ人物であったといわれ、故に盛岡城主南部氏と境を接する要地である一関城に配されたという。しかし藩内での専横から家臣団の対立を招き、寛文十一年(1671)に寛文事件、いわゆる伊達騒動を引き起こして土佐国へ配流となり、一関藩はわずか10年ほどで改易、その所領は仙台藩へ返還された。

 その後延宝九年(1681)、岩沼藩主田村右京大夫建顕が名取郡岩沼陣屋より所替となり、再び一関藩が立藩された。
 藩主田村氏は伊達政宗の妻愛姫の実家であり、田村郡三春城を本拠とした戦国大名だったが、豊臣秀吉の奥州仕置の際に伊達家中と見なされ所領没収となり断絶していた。愛姫はこのまま田村氏が絶えるのを嘆き、その遺言として、古川城主鈴木氏の名跡を継いでいた2代藩主忠宗の三男、宗良に承応二年(1653)名跡を継がせ再興させたものである。

 一関藩主となった建顕は城下の整備を進め、現在に続く一関市の発展の礎を築き上げた。さらに学問に秀でていた建顕は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉に特に重用され、元禄四年(1691)譜代大名にしか許されない江戸城奥詰に任ぜられて譜代格となり、翌年には奏者番を拝命、さらに元禄六年(1693)には城主格となっている。
 その後一関藩主田村氏は、10代邦栄の代に明治維新、戊辰戦争を迎え、11代崇顕が版籍を奉還するまで続いた。

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「週刊名城をゆく23 弘前城・盛岡城」(小学館2004)

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