石巻市
旧石巻市 - 旧石巻市(S42) |
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石巻城 |
石巻城跡碑。 |
【所在地】 |
石巻市日和ヶ丘2
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【別称】 |
日和山城、日能山城、葛西本城 |
【築城年】 |
(文治五年(1189)、)南北朝時代 |
【築城者】 |
葛西氏 |
【城主変遷】 |
葛西氏… |
【廃城年】 |
慶長六年(1601)頃か |
【現状】 |
日和山公園、鹿島御児神社、宅地 |
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文治五年(1189)源頼朝の家人葛西清重が、奥州合戦の恩賞として陸奥国気仙、江刺、胆沢、磐井、牡鹿、本吉各郡を所領として与えられ、その本拠として築いたとされる。清重は豊島清光の三男であり、奥州総奉行、検非違使職として戦後荒廃した陸奥国の復興などの処理に当たったが、奥州藤原氏の残党である大河兼任の乱の鎮圧後は鎌倉へ帰還、幕府へ出仕している。従って清重が取り立てた居城である可能性はあるものの、当時は一族もしくは代官を差し置いたものであろう。その後葛西氏が当地へ下向、本格的に石巻城を居城として整備したのは、南北朝時代の4代清経、5代清宗の頃と推定されている。
葛西清宗は南朝方に与し、陸奥国司北畠顕家に従ってその主力として戦い、戦国時代には大崎氏、伊達氏と並ぶ奥羽の有力大名に成長した。特に大崎氏とは所領を接しており、伊達氏と誼を通じて大崎領を南北から挟む形で抗争を繰り返した。この頃には広大な領国経営を考慮したものか、また大崎氏に対する防衛策を強化したものか、居城を所領の中心部に近い登米郡寺池城へと移している。なおこの居城の移動について、葛西氏には石巻城を本拠とする系統と寺池城を本拠とする系統とがあり、南朝方に与した石巻葛西氏がその勢力縮小と併せて没落し、足利氏に与した寺池葛西氏の勢力に呑み込まれたとも推定されている。葛西氏は、清重の嫡流であり後に陸奥国へ下向した関東葛西氏、および清重の庶流で早くに陸奥国へ下向し、独立した御家人となっていた奥州葛西氏とに分かれているが、後世あたかも1つの系統であったかの様に系図が作られ混乱している。
しかし鎌倉以来の名族葛西氏も、天正十八年(1590)17代晴信が豊臣秀吉の小田原城征伐に参陣を果たせず、改易処分となり滅亡した。その旧領は、木村吉清の支配を経て天正十九年(1591)伊達政宗に与えられる。政宗は玉造郡岩出山城を居城とし、その後慶長八年(1603)仙台城を築いて本拠を移すが、その新城造営の候補地として、現在地である青葉山、往古に奥州藤原氏が鞭館を置いたとされる榴ヶ岡、そしてこの石巻城の3箇所を幕府に申請したとされる。政宗は要害であり、目の前に良港の広がる石巻を第一の候補と考え、通常第一候補は外されるため第三候補として幕府に申請したが、幕府もこの要害を恐れ第一候補の青葉山への築城を許したという伝承もある。
石巻はその後仙台藩伊達氏の直轄領となり、政宗の命を受けた川村孫兵衛重吉による北上川の治水工事によってさらに発展、仙台藩の経済の中心となり発展を続けた。
北上川河口の日和山に築かれ、最高所にある鹿島御子神社の境内周辺が本丸となり、高さ約60m、東西、南北とも約100mの規模を持つ。本丸東南には100mほど台地が延び、先端部には愛宕神社が祀られ、当時は物見台として使用されたものと推定される。北上川を望む本丸東側は断崖となり、太平洋を望む南側もかなりの断崖だが、幾つかの壇が置かれており、中央に現在石段が連なっている。南西の一段下がった日和山公園から北西の駐車場にかけての一帯が二の丸と考えられている。城域としては断崖となる本丸東面、南面から北面は市役所裏手、西側ははっきりとした境界が不明ながらも市立女子校から海門寺公園へと下る坂道の窪地と推定されており、東西約300m、南北約500mに及ぶ巨大な城館であった。しかし現在は宅地造成、公園化もあってかなり改変され、際立った遺構は残されていない。
石巻に住んでいた頃はさすがに何度となく行きましたが、既に会津に住して20数年、その後は数えるほどしか訪問しておりませんでした。何度訪れても日和山の辺りは変わってないな…と思っておりましたが、あの地震が起きた後に家族に見せた日和山からの景色は一変しておりました(>_<。わたしが原チャリで走り回っていた市街地も大きな被害を受けましたが、これからも大いに復興が進むことを遠くから祈っております。 |
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石巻古館 |
石巻古館付近。 |
【所在地】 |
石巻市泉町南鰐山
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【別称】 |
鰐山柵 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
市街地 |
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古代の伝説に、鰐子の皇子なる人物が朝命を奉じて征夷大将軍として下向、鰐山柵に駐ったとあり、その伝説から鰐山という地名が起こったという。『安永風土記』に石巻村の古館の記載があり、この古館とはこの伝説に由来したものかと紫桃正隆氏が考察している。
前述の『風土記』に、高さ四十五間、東西三十四間、南北三十九間とあり、往古には梅ヶ丘の麓に古館へ上る岐路を指示した巨石が立っていたとされる。その巨石は道路拡張のため取り払われ、現在は羽黒山頂に運ばれそこに所在しているという。
現在は石巻高等学校、石巻中学校、門脇小学校といった学校や裁判所、合同庁舎などが建てられていますが、一昔前までは茫々たる松林で、高さも石巻城の場所よりわずかに高かったという、と紫桃氏は記述しています。行ってはみたもののもちろんその痕跡などあるわけもなく、付近の写真だけ撮影して退散して参りました。 |
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湊館山城 |
湊館山城跡(館山公園)入口。 |
【所在地】 |
石巻市八幡町2
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【別称】 |
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【築城年】 |
室町時代 |
【築城者】 |
笹町氏か |
【城主変遷】 |
葛西氏[笹町氏]…伊達氏[笹町氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
館山公園、宅地 |
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葛西氏家臣笹町氏の居城であった。笹町氏は葛西家中で権勢を誇った千葉氏一族、笹町宮内少輔(雅楽祐、新助とも)胤重を祖とし、鎌倉時代から東磐井郡笹町城にあって勇名を馳せたという。その後湊館山城に住して代々地頭職を勤めていたが、17代伊賀守重持の代に豊臣秀吉の奥州仕置があり主家葛西氏は改易、重持は大崎葛西一揆に身を投じて奮戦するも敢えなく平定され捕らわれの身となった。しかし嫡男(孫とも)隼人介胤持が伊達政宗によって召し出され、笹町氏は断絶の危機を乗り越えた。その後寛永九年(1632)、持胤の子元清は5千石を知行して石巻地方の領主を勤めるが、貞享年間(1684-88)22代九左衛門の代で家系が絶えたという。これは笹町新右衛門重頼の代、石巻長禅寺の住職、栄存法印との間に私怨を含む確執を生じ、一族全て呪い殺されたという伝説がある。
標高42mの湊館山全体を利用した城郭で、本丸と推定される頂部の平場は東西15m、南北80mの規模を持つ。本丸の西側には幅、深さとも1.5mほどの空堀があったとされるが現在は見られない。本丸の南、北には幅6〜9mの腰郭が2段、東には4段築かれ、東側尾根伝いの鞍部には幅12m、深さ3m空堀があったとされる。なお西、南、北の腰郭の下は急斜面となっている。
なお笹町氏の居館は湊館山もしくは田町五松山の北麓にあったとされるが、湊館山頂部は軍事性が強く江戸時代の屋敷地としては向かないため、当地に屋敷があったとしても頂部ではなく麓であっただろうと考えられている。
現在は館山公園となっており、就職した後に営業で石巻を訪れた際に初めて訪問。その後10年の空白を経て再訪したところ、まず館山公園の入口に至るまでに迷いました(笑)
相変わらず公園入口までの坂道は急坂で狭い!当時の愛車三菱ギャランには辛い経験をさせてしまいました。館山公園より更に上に主郭部がある様ですが、初回は仕事中、2回目は雨中ということでまた断念。うーん、現在においても堅固な城館です…。 |
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【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)、「歴史群像シリーズ19
伊達政宗」(学習研究社1990)、、「ビッグマンスペシャル
歴史クローズアップ 伊達政宗」(世界文化社1995)、「歴史群像名城シリーズ13
仙台城」(学習研究社1996)、「歴史と旅増刊
戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「定本
日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「歴史と旅
2000年10月号 城物語」(秋田書店2000)、「歴史群像シリーズ戦国セレクション
風雲 伊達政宗」(学習研究社2001)、「歴史と旅
2001年7月号 奥州王 伊達政宗の野望」(秋田書店2001)、「歴史街道スペシャル
名城を歩く22 仙台城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく19
仙台城」(小学館2004) |
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