奥州市(江刺区)
旧江刺市(〜H18)
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岩谷堂城
岩谷堂城本丸跡土塁。
岩谷堂城本丸跡土塁。
【所在地】 奥州市江刺区岩谷堂町裏
【別称】 (藤原)御館、柄杓城、岩谷堂要害
【築城年】 建久二年(1191)か
【築城者】 (藤原経清)、千葉胤道
【城主変遷】 (安倍氏[藤原氏])…葛西氏[千葉氏、江刺氏](1191-1590)−木村氏[溝口氏](1590-91)−伊達氏[猪苗代氏、桑折氏、古田氏、増田氏、藤田氏、古内氏、岩城(岩谷堂伊達)氏など](1591-1868)
【廃城年】  
【現状】 岩谷堂高校
 仙台藩伊達氏の要害の一。

 古来より御館山と称された城跡で、古くは奥州藤原氏の祖となった藤原経清の砦であったされ、住居跡などが発掘されている。そのためこの地を経清の館であった豊田館、もしくは安倍氏の築いた諸柵の一である鶴脛柵と擬定する説もある。

 文治五年(1189)奥州合戦で藤原氏が滅亡した後は、源頼朝より奥州総奉行に任ぜられた葛西清重の所領となり、唐梅館主千葉頼胤の三男三郎胤道が配されたとされる。なお胤道を岩谷堂城主とするものと、豊田城主とするものの二説があるという。次いで葛西宗家5代孫、信詮の次男江刺次郎信満が岩谷堂城主となり、以降江刺氏は葛西七人衆に数えられる重臣となった。城跡には江刺四郎三郎清昭が延慶四年(1311)に建立した父母を供養する板碑があり、このことから鎌倉時代末期に城としての体裁が整えられたと推定されている。なお江刺氏の系図は宗家である葛西氏同様不明な点が多く、清重の次男朝清の子、清任が江刺氏の祖であるともいう。

 江刺氏は葛西氏家中屈指のの巨族ではあったが、故に宗家との争いも多く、正平十六年(康安元・1361)江刺郡浅井で両者の合戦が行われている。その後文明十七年(1485)、明応四年(1485)など、数回にわたって江刺隆見と葛西政信との間で合戦が行われ、明応の合戦で江刺氏が敗れた後は政信の孫三河守重胤が岩谷堂城主となり郡内を再統一している。この辺りの江刺氏の系図も、葛西氏の系図が不明確である影響もあって錯綜している。さらに天正十三年(1585)頃には江刺三河守信時が叛乱を起こして葛西晴信から勘当されているが、この頃になると南下政策を取る三戸城主南部氏によって葛西領北辺が侵され、その影響もあったとみられる。信時の失脚後は代わって兵庫頭重恒が継承するも、その重恒も気仙郡の浜田安房守に与して反旗を翻している。この時期の江刺氏は、失脚した三河守信時系とそれに代わって惣領となった兵庫頭重恒系のほか、幾つかの系統があったとみられ、さらに系図は混乱している。

 葛西氏、江刺氏らが内訌を繰り返している間、中央では豊臣秀吉による天下統一事業が着々と進んでいた。そして天正十八年(1589)、その総仕上げとして小田原城征伐が行われると、葛西氏にも参陣を促す令達が届いた。しかし葛西氏17代晴信は参陣を果たせず、ついに奥州の名族葛西氏にも改易処分が下る。これを不服とする主従は奥州仕置軍を迎え打って徹底抗戦するが、その際に侍大将として江刺三河守胤虎、兵庫介胤元(重俊)父子が晴信とともに佐沼城へ籠城、その後は討死したものか消息は不明である。
 一方重恒は仕置軍が到着すると岩谷堂城より撤収、家臣三ヶ尻加賀守の努力、そして奥州仕置に下向していた浅野長政の口添えを得て南部氏に随臣した。南部信直は重恒に1500石を与えて稗貫郡新堀城主とし、和賀、稗貫一揆の際には南部氏の部将として出陣している。その後の慶長十七年(1612)、重恒の養嗣子重隆の子隆直は土沢城へと所替となり、盛岡藩南端の防備に当たった。なおこの江刺重恒の出自も曖昧であり、江刺氏は先の浜田安房守の叛乱の後に安房守の子三郎信茂(重俊)を養子として迎えたが、信茂は天正十九年(1590)弟の五郎信綱とともに桃生郡深谷で伊達氏に謀殺され、その後再び安房守の子、末弟の信雄を養子としたが、その信雄が南部氏に臣従して兵庫頭重恒を称したとするものもある。信茂、信雄兄弟を三河守信時の子とし、また重恒の養子となり桃生郡深谷で謀殺された重俊、及び重恒を継いだ重隆兄弟の実父が安房守であるともいわれており、この系図の混乱を明確にするのは不可能であろう。
 奥州仕置後、旧大崎、葛西氏領は佐沼城主木村吉清の所領となり、江刺氏が去った岩谷堂城には家臣溝口外記が入城した。しかし木村氏の暴政に大崎、葛西氏旧臣たちが反抗し溝口外記を殺害、この事件が大崎葛西一揆の発端となった。一揆は木村氏領一帯に拡大し、伊達政宗、蒲生氏郷らによって平定されるが、その後に主だった大崎、葛西氏旧臣が桃生郡深谷の須江山に集められ、政宗の命によって謀殺されている。

 一揆平定後の天正十九年(1591)、豊臣秀吉は陸奥国南部及び出羽国を政宗より召し上げ、一揆で荒廃した旧木村氏領を代わりに与えた。これは一揆平定の功を賞したということより、その一揆の黒幕が政宗であると見破った秀吉の懲罰の意味合いが強いと見られる。ともあれ岩谷堂城には初め猪苗代氏、次いで桑折摂津守政長が封ぜられ、領内の復興に力を注いだ。その後古田、増田、藤田、古内氏らが次々と入封した後、万治二年(1659)には一門であり政宗の孫に当たる岩城宗規が入封、岩谷堂城の大規模な改修を行った。宗規は伊達姓を称することを許され、以後岩谷堂伊達氏として9代の後明治維新を迎えている。なお元和元年(1615)に一国一城令が出された後は、岩谷堂城は正式には岩谷堂要害と称され、江戸時代を通じて伊達領の北辺の守りを担った。


 標高115m、比高80mの独立丘陵全体が城地で、東西350m、南北200mの規模を持つ。山頂の東西80m、南北100mの平場が本丸であり、現在は八幡神社、藤原経清、清衡を祀る二清院が建てられている。本丸西側にむかって中の郭、二の丸、三の丸が置かれ、現在二の丸は岩谷堂高校グラウンド、三の丸は小学校となっている。


 うーむ、ほとんど江刺氏の解説に終始してしまった…。しかもさっぱり要領を得ておらず、これで判るのは「うーん、とにかく江刺氏の系図ってのは良くワカランみたいだな」ってことくらいか?なお岩谷堂城を訪問しての感想は、結構デカいということと、木の上を見るとりすがいますよってところか。しかし全く参考にならんサイトですな。
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豊田館
豊田館跡石碑。
豊田館跡石碑。
【所在地】 奥州市江刺区岩谷堂苗代沢
【別称】 豊田城
【築城年】 平安時代
【築城者】 藤原経清
【城主変遷】 藤原氏…
【廃城年】  
【現状】 公園
 奥州藤原氏祖、亘理権大夫藤原経清の居城、と仙台藩“封内風土記”“古城書上”に記載される。

 藤原経清は武蔵守田原藤太藤原秀郷5世の孫で、長久元年(1040)陸奥国司藤原登任に従う在庁官人として国府多賀城へ下向、亘理郡衙付近を所領して亘理権大夫と称された。その後、陸奥国の俘囚長安倍頼良(頼時)の女婿となった事から江刺に豊田館を築いて居を移し、ここで奥州藤原氏初代清衡が誕生したという。

 天喜四年(1056)から始まった前九年合戦では、経清は始め国府軍の一員として従軍、しかし後に安倍軍に身を投じてその主力となる。康平五年(1062)出羽の俘囚長清原武則が参戦したことで形勢が逆転し、安倍氏は厨川柵で滅亡、捕らえられた経清は陸奥守源頼義の憎悪により処刑される。清衡はその後、清原武則の子武貞に再嫁した母に連れられて出羽国で成長した。
 この前九年合戦の功で鎮守府将軍となった清原武則の子武貞は、奥羽両国の実質的支配者となり大いに勢力を拡大するが、跡を継いだ武貞の嫡子で清衡の異父母兄、真衡の専横な振舞いが次第に目立つようになる。清衡やその異父弟家衡、そして清原氏一族の重鎮であった吉彦秀武らはそれに反発し、永保三年(1083)挙兵し、後三年合戦が始まった。しかし、そこに陸奥守兼鎮守府将軍として多賀城へ赴任していた源頼義の子義家が真衡方として介入すると、清衡、家衡らは兵を収めた。しかしその直後に真衡が死去、義家の裁定によって清原氏所領であった奥六郡は清衡、家衡兄弟に分割して与えられることとなった。ところが、清衡に与えられた温暖な南三郡に対し、寒冷な北三郡を与えられた家衡はこの裁定を不服とし、応徳三年(1086)豊田館を急襲、妻子を始めとする一族郎党を討ち殺した。ただ一人難を逃れた清衡は義家に援助を請い、翌寛治元年(1087)源氏の加勢を得て金沢柵で家衡を討ち滅ぼした。

 清原氏の実質的支配者となった清衡は姓を藤原へと復し、寛治三年(1089)義家より陸奥国奥六郡、出羽国の押領使に任ぜられ再び豊田館の館主となった。その後嘉保元年(1094)、あるいは康和元年(1099)頃に平泉に居を移し、以後4代約100年にわたって奥州に黄金文化を華開かせた。


 仙台藩“封内風土記”によると、東西57間、南北37間、“古城書上”によると東西78間、南北46間の規模を持つ。三つの郭を空堀で区画してあったとされるが、ほとんど遺構は残っていない。

 現在は公園として整備されていますが、「仙台領内古城・館」に記載されているような土塁状のもの、土段などは確認できませんでした。いくつか擬定地があるようですが、ここが一番有力なんでしょうね。
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人首城
人首城跡解説板、標柱。
人首城跡解説板、標柱。
【所在地】 奥州市江刺区人首城内
【別称】 人首要害
【築城年】  
【築城者】 人首氏か
【城主変遷】 葛西氏[江刺氏(人首氏)、阿蘇氏]−木村氏(1590-91)−伊達氏[沼辺氏など](1591-1868)
【廃城年】  
【現状】 公園
 仙台藩伊達氏の要害の一。

 築城年代、築城者は明らかでなく、戦国時代には葛西氏家臣人首氏が居城していたと伝わる。人首氏は肥後国より移り住んだ菊池氏の一族とも、下野国小山氏の一族とも考えられており、岩谷堂城主江刺氏の麾下に属した。人首城主として名の見える人首如清は江刺三河守重胤(隆之とも)の次男とされる。また天正年間(1573-92)には城主として阿蘇(安蘇)修理(国重?)の名が見え、天正十八年(1589)葛西氏滅亡とともに城を落ちたという。阿蘇氏は“葛西真記録”に記された人首権大夫と同系の者と考えられているが詳細は不明である。その後江刺氏、人首氏は盛岡城主南部氏家臣となり存続した。

 葛西氏滅亡後、その旧領は豊臣秀吉家臣木村吉清の所領となるが、吉清の暴政が大崎葛西一揆を引き起こして失脚、その後一揆平定に功のあった伊達政宗に与えられた。政宗は南部氏との藩境となるこの地を重視し、慶長十一年(1606)武勇を以て知られた沼辺摂津守重仲を志田郡新沼城より移封、人首要害として改修、城下の整備に当たらせた。以後沼辺氏は10代武房まで人首要害を居所とし、明治維新を迎えるまで藩境警備の任に当たった。


 比高約40mの丘陵上に所在し、頂部は東西250m、南北120m、東西に三つの平場が残る。東側の一段高い円形の平場が中世の本丸とみられ、西端の東西100m、南北80mの平場が二の丸とみられている。二の丸は藩政時代には本丸となり、沼辺氏の屋敷地となっていたと考えられている。中世の大手は東西の平場を分ける窪地北側であったが、藩政時代は搦手となり、藩政時代の大手は本丸となった西端の平場の南西端、人首集落へと通じる登路である。


 現在は公園となっていますが、あまり整備が行き届いているような感じはありませんでした。画像の解説板の付近が軽く刈払いしてありましたが、その東側に続く畑地(庭園跡ともいわれている)の延長みたいでしたし…。でも作業をしていたお父さんは、わたしが写真撮影をしているとわざわざ機械をよけてくれました<(_ _)> 城跡入口に標柱、本丸(中世の二の丸)平場の神社に解説板がありましたが、内容はあまり親切な感じはなかったですねー。

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「歴史街道スペシャル 名城を歩く6 弘前城」(PHP研究所2004)、「週刊名城をゆく23 弘前城・盛岡城」(小学館2004)

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