会津若松市
旧会津若松市 - 旧北会津郡町北村(〜S26)
トップさくらとおしろ福島県会津若松市上荒久田柵
上荒久田柵
上荒久田柵跡付近。
上荒久田柵跡付近。
【所在地】 会津若松市町北町上荒久田字古屋敷
【別称】 上荒久田館
【築城年】  
【築城者】 渡部氏か
【城主変遷】 渡部氏…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地
 『新編会津風土記』『会津古塁記』に記載があり、渡部源左衛門基綱が居住したと伝わる。東西十八間、南北二十四間の規模であったという。

 まほろん“文化財データベース”の位置情報を基に訪問も、「会津若松市埋蔵文化財分布調査報告書」とは異なる位置でした。会津古城研究会会長石田明夫氏の記述に拠ると、集落中央部の畑地が館跡とのことですが…一体何処が集落中央部なのかが不明(T^T)
トップさくらとおしろ福島県会津若松市鈴木屋敷
鈴木屋敷
鈴木屋敷跡付近。
鈴木屋敷跡付近。
【所在地】 会津若松市町北町上荒久田字鈴木
【別称】  
【築城年】  
【築城者】 鈴木氏か
【城主変遷】 鈴木氏…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地
 『新編会津風土記』に記載があり、何時の頃か鈴木五郎大信なる人物が居住したことから鈴木屋敷と称されたという。東西二十三間、南北二十一間の規模であったという。

 まほろん“文化財データベース”の位置情報を基に訪問。菅原神社の南側がその跡であるとすれば画像の水田地が該当するはずですが、「会津若松市埋蔵文化財分布調査報告書」の示す場所とは若干異なります。しかし何れにしても耕作地か宅地、遺構は期待出来ないでしょうorz なお「会津若松市〜」には在家屋敷跡とあります。
トップさくらとおしろ福島県会津若松市中地館
中地館
中地館跡付近。
中地館跡付近。
【所在地】 会津若松市町北町中地
【別称】  
【築城年】 天文十二年(1543)
【築城者】 平塚氏
【城主変遷】 蘆名氏[平塚氏]…
【廃城年】  
【現状】 宅地、耕作地
 天文十二年(1543)に構築されたとされ、館主として平塚丹波守実恒の名が伝わる。
 平塚氏は元は平塚館に居住、元亀、天正年間(1570-93)頃には平沢館へ移り、天正十二年(1584)に当地へ居館したという。

 まほろん“文化財データベース”で、中地集落内の菅原神社南西一帯が示されていたので訪問も、その位置は一面の田んぼとなっていました。圃場整備で遺構も認められないでしょうが、水田地は明らかに集落より低地ですので、おそらく集落内に館跡があったのでは、と思いますが…? 会津古城研究会会長石田明夫氏の著述に拠れば土塁、堀跡が遺るとのことですが、さすがに民家敷地に侵入も出来ません…。
トップさくらとおしろ福島県会津若松市中ノ明館
中ノ明館
中ノ明館跡付近。
中ノ明館跡付近。
【所在地】 会津若松市町北町始字中ノ明
【別称】  
【築城年】 延徳年間(1489-91)
【築城者】 大島守信
【城主変遷】 大島氏…
【廃城年】  
【現状】 宅地
 『会津古塁記』に、延徳年間(1489-91)大島小太郎守信によって築かれたとあり、東西五十二間、南北四十八間の規模であったという。

 まほろん“文化財データベース”で示された箇所は、49号国道沿いに立地する民家敷地。さすがにちょっとお邪魔しますよ〜という訳にもいかず、周辺を徘徊したのみで諦めました。なおその場所は画像右手の道路奥で、画像の門はその南側に所在するお寺さんの門です。
トップさくらとおしろ福島県会津若松市平沢館
平沢館
平沢館跡。
平沢館跡。
【所在地】 会津若松市町北町中沢字平沢
【別称】  
【築城年】 元亀、天正年間(1570-93)
【築城者】 二国実国か
【城主変遷】 二国氏…
【廃城年】  
【現状】 荒ハバキ神社、耕作地
 元亀、天正年間(1570-93)、二国若狭実国が居住したと『新編会津風土記』にある。二国氏は新国氏の誤りであろうか。また同時期、平塚氏が平塚館より中地館へ移り住む間に居住したという記録もある。
 三十五間四方の規模を持ち、『新編〜』に記された頃は堀が巡っていたという。

 平沢集落北側に所在していましたが、現在は一面の水田となっており遺構は認められません。水田中に鎮座する荒ハバキ(金偏に祖)神社を中心とした範囲の様です。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「会津若松市文化財調査報告書第62号 会津若松市埋蔵文化財分布調査報告書」(会津若松市教育委員会1999)

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