伊達市
旧伊達郡伊達町(〜H18) |
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長倉館 |
長倉館跡(伊達小学校)。 |
【所在地】 |
伊達市館の内
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【別称】 |
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【築城年】 |
(永正年間(1046-53)、)南北朝時代 |
【築城者】 |
(安倍貞任、)長倉氏か |
【城主変遷】 |
(安倍氏)…伊達氏[長倉氏]… |
【廃城年】 |
天正十八年(1590)か |
【現状】 |
伊達小学校、宅地、耕作地 |
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築城年代、築城者とも不明。あくまで伝説の域を出ないが、永正年間(1046-53)源頼義が安倍貞任を攻めた際、頼義が築いた宮代館に対して貞任が築いたともされている。
応永七年(1400)伊達大膳大夫政宗は、一族の長倉入道と謀って赤館と長倉館に拠り、関東管領足利満兼に反旗を翻した。満兼は岩松氏に大軍を授けてこれを攻めたが大敗、さらに同九年(1402)には勅使河原兼貞を大将に再度大軍を差し向けるが、一騎残らず討ち取られて兼貞は捕らえられた。その後さらに満兼は上杉氏憲に大軍を授けてこれを討伐、政宗、長倉入道らを降伏せしめ、やっとこの叛乱を鎮めたという。
なお長倉氏の本姓は源氏といい、在郷の地名を称して長倉を称したとある。前述の様に長倉入道が伊達氏一族の藤姓であるとすれば、別系統の長倉氏が存在すると考えられる。伊達氏の内訌である天文の乱に於いて、長倉信濃守、同伊賀守ら一族の多くは稙宗派に与して失脚し、晴宗派の長倉彦兵衛が長倉氏の名跡と所領の安堵を受けている。
戦国時代にも伊達氏家臣長倉氏の居館として推移したと思われる長倉館も、天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置、もしくは翌年の伊達氏の伊達郡没収によって廃城になったとされている。
東西140m、南北130mの規模を持つ単郭方形の平地館で、現在の伊達小学校東側とされているが、伊達小学校敷地内にも土塁があったことが明治時代の地籍図でみられることから、複郭式の城館であったとも考えられている。地籍図には東辺土塁に食違いの虎口が構えられ、土橋によって館外へ通じていたことが見て取れる。しかし県道や鉄道敷設、小学校建設や宅地化によって遺構は破壊され、現在その面影を見ることは出来ない。 |
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根田館 |
根田館跡付近。 |
【所在地】 |
伊達市根田
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【別称】 |
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【築城年】 |
鎌倉時代か |
【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地 |
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周囲を土塁、堀で囲んだだけの単郭方形館で、この古い単純な構造から築城年代は鎌倉時代と見られている。築城者、館主など詳細は不明である。
現在は宅地、耕作地となっており遺構は遺っていないが、明治時代の地籍図から東西約80m、南北約65mの規模であったと推定されている。昭和二十年頃までは長さ約50m、高さ約1mほどの土塁が確認出来たというが、虎口の位置などは明らかになっていない。 |
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伏黒館 |
伏黒館跡(伊達東小学校)。 |
【所在地】 |
伊達市伏黒字館ノ内
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
伊達東小学校 |
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地名として舘ノ内、土井といったものが残っているが、現在は一面の平坦地となっており、遺構は確認出来ない。また明治時代の地籍図でも館跡らしき地割は見られず、明治時代以前に耕作地として開墾され、地名のみがかろうじて残されたものであろう。なお館主などについての伝承も残っていない。
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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