喜多方市
旧喜多方市 ‐ 旧耶麻郡熊倉村(〜S29) |
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上ノ代館 |
上ノ代館跡を南西より。 |
【所在地】 |
喜多方市熊倉町都舘
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地 |
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『新編会津風土記』に記載のある、構築年代、館主ともに不明の館村の館跡5箇所の内の一で、その所在地の記載から竹原館跡と比定されている。なお東西五十五間、南北四十一間の規模であったという。
現在は圃場整備で潰滅しており、往時の姿は江戸時代末期、明治時代初期の字限図、及び明治時代の地籍図や圃場整備前の地形図で推定するほかない。字限図、地籍図によると、周囲には館ノ内、土手外、上リ口などの小字名が見られ、圃場整備前は館ノ内と土手外の境界に幅1m、高さ0.5mの土手、それに沿った幅1m、深さ1mほどの堀が存在していたという。この土手や堀が館跡に関連する遺構かを判断するのは難しいが、土手外の小字名はこれに関連するものと推定される。館ノ内の所在する丘陵からその下までの比高は約15mほどである。
会津若松、塩川方面から奥さんの実家へ向かう道路沿いであるため、しょっちゅう通る道沿いに所在しておりました。すぐ近くにその名も「館」集落があるので、いつも何となく怪しいと思っていた場所でしたが、まさか本当に館跡に比定されていたとはねー。城館と意識して初めて注視しましたが、南西、南東側はともかく、北西、北東側は雄国丘陵からの続いている地形、圃場整備でだいぶ改変されているにしても、それと区画する堀跡などが見られても良いかと思いますけどねぇ…? |
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熊倉館 |
熊倉館南側堀跡。 |
【所在地】 |
喜多方市熊倉町熊倉物江
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【別称】 |
山口屋敷 |
【築城年】 |
天文年間(1532-55)か |
【築城者】 |
山口(羽曽部)実村 |
【城主変遷】 |
山口(羽曽部)氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
熊野神社、宅地、耕作地 |
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天文年間(1532-55)山口弥太郎実村が構築したとされる。往古この地は羽曽部村といわれていた様で、山口氏は後に羽曽部姓を称したという。
まさに毎日の通勤ルート上(^-^;
「熊倉館」の存在は割と早く知っていたので、自宅のすぐ近くということもあり度々探していたんですが、毎日目の前を通過していたとはねー。
書籍類では主に山口屋敷の名称で取り扱われています。
東西三十八間、南北四十一間の規模で、現在は水田、畑地となっていますが、館跡南側に隣接する熊野神社裏には堀跡と思われる低地が帯状に遺っています。そのすぐ南側を大塩川が流れており、周囲に堀を巡らせた平地館であったことが想像出来ます。西辺、北辺の境界は何とも判然としませんでしたけどね。
なお熊倉集落には現在も山口姓、羽曽部姓の方が多くお住いになっており、前の職場の同僚にも熊倉出身の羽曽部さんがいらっしゃいました。 |
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高柳北館 |
高柳北館付近。 |
【所在地】 |
喜多方市熊倉町都三百苅乙
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【別称】 |
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【築城年】 |
弘安年間(1278-88)、ほか諸説 |
【築城者】 |
渡部主膳、佐瀬時兼か |
【城主変遷】 |
(渡部氏、佐瀬氏、野部氏)…高柳氏 |
【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地 |
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弘安年間(1278-88)渡部主善が構築したとも、年代不詳ながら佐瀬帯刀時兼が構築したともいわれている。また更に年代不詳ながら、野部清吾某なる人物が居住していたともいう。
天正年間(1573-92)には高柳主善なる人物が居住していたとされるが、黒川城主蘆名氏もしくはその家臣松本氏の被官であろうか。
東西四十八間、南北六十一間の規模であったと伝わっていますが、現在は圃場整備で遺構は失われている様です。館跡とされる場所の水田面には若干の段差が見られますが、特に方形の地割も見られませんので、往時を偲ぶのは難しいですね。 |
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高柳南館 |
高柳南館跡南辺。 |
【所在地】 |
喜多方市熊倉町都高柳乙
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
(坂井氏)… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
西光寺、宅地、耕作地 |
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年代は不詳ながら坂井雅楽某なる人物が居住していたという。
高柳集落に所在する西光寺周辺を南端とし、その北側一帯が館跡と推定されている様です。東西十五間、南北十六間の規模で、“土居ノ形僅ニ存セリ”という記述も見られますが、現在は潰滅していると考えて差し支えないかと…。西光寺及び墓地南側、耕作地との境には若干の土盛りが見られますが、それが上の記述に当て嵌まるものかは…寺社造営、圃場整備の際のものですかねー。 |
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竹原館 |
大塩川を隔てて北西より望む竹原館遠望。 |
【所在地】 |
喜多方市熊倉町都
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
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【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地 |
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『新編会津風土記』に記載のある、構築年代、館主ともに不明の館村の館跡5箇所の内の一で、その所在地の記載から竹原館跡と比定されている。なお東西二十五間、南北二十三間の規模であったという。
現在は圃場整備で潰滅しており、江戸時代末期、明治時代初期の字限図、及び明治時代の地籍図や圃場整備前の地形図で推定するほかない。しかし昭和四十六年(1971)に調査が行われており、その際の記録によると北辺土塁の西側半分(東西約25.5m、基底部幅約4.2m、高さ約2m)、東辺土塁の南側(南北約32m、基底部幅約4.8m、高さ約2.5m)、南辺土塁の西側(東西約11m、基底部幅4.1m、高さ1.2m)が残存していたという。また土塁の外側には水路や帯状の水田が見られ、堀跡と推定される。南辺には主郭をほぼ2分する形で南北に通じる道路があり、そこに虎口が設けられていたと考えられている。
行ってはみたものの現在は土塁も崩されており、全くもって正体不明でした(^-^;
しかし旧米沢街道沿いに所在しており、北には大塩川が流れる丘陵地に所在しているので、なかなか面白そうな館跡ではあります。しかしわたしの目は節穴なので、楽しめるかどうかは非常に不安です。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「喜多方市史
第4巻 考古・古代・中世 資料編I」(喜多方市史編纂委員会1995) |
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