喜多方市
旧喜多方市 - 旧耶麻郡上三宮村(〜S29)
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青山城
青山城西城跡。
青山城西城跡。
【所在地】 喜多方市上三宮町上三宮三島前
【別称】  
【築城年】 建暦年間(1211-13)、宝治年間(1247-49)か
【築城者】 佐原(加納)盛時
【城主変遷】 佐原(加納)氏…
【廃城年】  
【現状】 山王神社、耕作地
 文治五年(1185)奥州合戦の功により、三浦氏一族の佐原十郎左衛門尉義連は源頼朝より会津四郡の地頭職に任ぜられた。その後義連の子五郎左衛門尉盛連は6人の息子に所領を分け与え、耶麻郡加納荘を与えられた五男五郎左衛門盛時が青山城を築城、以後加納氏を称したという。なお築城年代は不明であり、弟とされる新宮時連が建暦二年(1212)に新宮城を築いているため同年代と考えられているが、新宮城の築城年代自体も確証はない。佐原氏、新宮氏それぞれが加納荘、新宮荘を領有したのは宝治年間(1247-49)以降と推定されており、築城もその頃であろう。

 加納盛時は宝治元年(1247)の宝治合戦において、三浦氏一族でありながらも兄蘆名光盛、弟新宮時連と共に北条時頼に与して家名を残し、三浦泰村が敗死した後は惣領として三浦介を称した。盛時の子孫は加納殿と称され、青山城を本拠に勢力を拡大するものの、次第に会津各所に並立する同族間の抗争が激しくなり、遂に応永九年(1402)新左衛門実詮が新宮次郎盛俊に攻められ滅亡した。しかし加納氏の滅亡と共に青山城が廃城になったかどうかは明らかでない。

 青山城は東城、西城の2つから成り立ち、平地に築かれた東城は平時の居館、丘陵上に築かれた西城は戦時の詰城であったが、現在は西城のみが残る。本丸は比高約10mの丘陵上、現在山王神社が鎮座する直径約10mの平坦面と推定されており、周囲には低い土塁が巡らされている。また丘陵の麓にも土塁、空堀が巡らされ、北側に土橋が確認出来る。城跡南側約200mの地点には、青山城の外郭であったと伝えられる佐原盛連を祀る五郎神社があり、また西側約120mの地点には外手(ホカデ)と称される土塁があったという。しかしこの土塁は国鉄日中線敷設工事の際に破壊されている。

 このお城の前もよく通りますが、久しく周囲を見ていないですねー。最近行ったのは何時だろう…と思いましたが、その時の目的は日中線の廃線を辿った時かな…。育った環境から鉄分を含んでいるところもあるわたし(笑)

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集 福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「喜多方市史 第4巻 考古・古代・中世 資料編I」(喜多方市史編纂委員会1995)

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