喜多方市
旧喜多方市 - 旧耶麻郡関柴村(〜S29) |
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赤坂館 |
赤坂館跡付近を西側より。 |
【所在地】 |
喜多方市関柴町関柴赤坂
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【別称】 |
西城 |
【築城年】 |
大永年間(1521-28)頃か |
【築城者】 |
関柴(松本)氏 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[関柴(松本)氏]… |
【廃城年】 |
天正十三年(1585) |
【現状】 |
耕作地 |
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関柴館を本拠とする関柴(松本)氏の支館と伝わる城館の一。
創建時期、館主など詳細は不明だが、松本長門守輔充が大永二年(1522)に関柴館を築いたとされており、同時期に構築されたものであろう。関柴館の支館として一族、家臣が配され、姥堂川西岸に開かれた田畑の経営拠点、そして北畑館、高橋館とともに南方への防御線としての機能を有していたものと考えられている。しかし天正十三年(1585)、関柴館主松本備中守輔弘の謀叛の後関柴館は廃されており、この館も同時に役目を終えたものであろう。
文献資料に名は見られず、現在は圃場整備後の水田面となっているが、西城の字名が残っている。かつては周囲に巡らされていた土塁跡と推定される部分に0.5mほどの土手が残っていたといい、その北西隅は高さ1mほどあり稲荷社の祀られていたという。稲荷社は圃場整備の際に移転され、またその土手も崩されて遺構は現存していない。
先日時間が空いたので自宅から車で数分の関柴地区へ。中善寺を目標にしてまず赤坂集落へ行って見ると、遺跡登録されている箇所はやっぱり田んぼ。すぐ東隣の民家の畑にお母さんがいたので話を伺うと、場所は間違いないけどなーんも遺ってはいないよーとのお話。すぐ西側に所在するお寺(寺名失念)の方が詳しいと伺うも、今回も時間がないのでパスさせて頂きました。 |
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北畑館 |
北畑館北西隅土塁より南へ続く畦。 |
【所在地】 |
喜多方市関柴町関柴北畑
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【別称】 |
中城 |
【築城年】 |
大永年間(1521-28)頃か |
【築城者】 |
関柴(松本)氏 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[関柴(松本)氏]… |
【廃城年】 |
天正十三年(1585) |
【現状】 |
耕作地、稲荷社 |
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関柴館を本拠とする関柴(松本)氏の支館と伝わる城館の一。
創建時期、館主など詳細は不明だが、松本長門守輔充が大永二年(1522)に関柴館を築いたとされており、同時期に構築されたものであろう。関柴館の支館として一族、家臣が配され、姥堂川西岸に開かれた田畑の経営拠点、そして赤坂館、高橋館とともに南方への防御線としての機能を有していたものと考えられている。しかし天正十三年(1585)、関柴館主松本備中守輔弘の謀叛の後関柴館は廃されており、この館も同時に役目を終えたものであろう。
文献資料に名は見られず、現在は圃場整備後の水田面となっているが、その一角に稲荷社が祀られる高さ1.7m、東西6.6m、南北8.4mの部分が認められる。これは地籍図によると館跡北西隅の土塁にほぼ間違いなく、この稲荷社から南、東側へ土塁が続いていたと推定されている。
まず赤坂館へ行った後、すぐ南東にあるはずの北畑館を探してみる…が、その時参考にしていたのは地図のみ。どうせ田んぼ写真を撮るしかねーんだろうなぁ、と何の期待もせず行ってみると、田んぼの一角に不自然な木立を発見。稲刈りの終わった西側の田んぼに下り、木立の南側へ延びる畦によじ登って木立の中を覗くと、小さな稲荷社が祀られていました。その稲荷社は明らかに水田面より高いので、もしやと思い帰宅後喜多方市史を読むとビンゴでした♪
でもこれがおそらく唯一の遺構と思われます。大事にして欲しいものですねー。 |
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小松山城 |
小松山城曲輪IIIに鎮座まします二荒山神社。 |
【所在地】 |
喜多方市関柴町下柴石堂
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【別称】 |
物見の松 |
【築城年】 |
大永年間(1521-28)頃か |
【築城者】 |
関柴(松本)氏 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[関柴(松本)氏]… |
【廃城年】 |
天正十三年(1585) |
【現状】 |
二荒山神社、山林 |
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関柴館の物見として機能したとされる小規模な山城。文献上に名前は見えないが、“関柴備中物見の松”と伝承される松の老木が存在する。
関柴館の北東約400m、姥堂川を挟んだ山地に所在する山城で、南北両側とも切り立ったほぼ直線的な尾根上の3つの曲輪から構成されている。比高約80mほどの山頂に曲輪Iが置かれ、その南西100mほどの位置に土橋状の細尾根で連絡された曲輪IIが置かれている。曲輪IIの直下に前述の物見の松が所在し、さらにその下に現在二荒山神社の鎮座する東西10m、南北28mほどの曲輪IIIが所在している。神社境内から直下の市道へ下る参道も直線的であり、要害としての機能はほとんど有していないものと思われる。
…でも実は二荒山神社境内地である曲輪IIIまでしか登ってないんです(^-^;
神社参道を見つけた頃にはもう陽がほとんど落ちており、参道を登るのも結構コワかったんですよ…。そこから尾根筋を登って行くことが出来るほどわたしはキモサベではない。次回は陽の高いうちに銀の弾丸を持って登りたいと思います。 |
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下勝館 |
下勝館跡付近を北側より(件の民家)。 |
【所在地】 |
喜多方市関柴町西勝舘ノ内
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
大原氏か |
【城主変遷】 |
大原氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地 |
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年代、築城者とも不明の館であり、『新編会津風土記』によると大原伊賀守某が居住したとあるが、その頃にはすでに開発が進み消滅していたものと考えられている。さらに現在は圃場整備のため全く遺構は遺っていないが、同書に東西三十二間、南北五十一間の規模であったことが記されており、地籍図から周囲を水堀が巡らされた方形館であったと推定されている。
121号国道のすぐ近くに所在しているので、当時の愛車ギャランのブレーキパッド交換中に訪問してみました。遺構がないのは判っていましたが、集落北端に土盛り?築山?でブロック塀が押し倒されそうなお宅を発見。『風土記』にすら記載のない、「喜多方市史」にも存在しないと記載されている土塁とも思えませんけどねー?
館ノ内という地名だけが現在もその存在を伝えている様です。 |
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関柴館 |
関柴館跡付近を南側より。 |
【所在地】 |
喜多方市関柴町関柴入柴
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【別称】 |
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【築城年】 |
大永二年(1522) |
【築城者】 |
関柴(松本)輔充 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[関柴(松本)氏](1522-85) |
【廃城年】 |
天正十三年(1585) |
【現状】 |
耕作地、宅地、山林 |
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黒川城主蘆名氏家臣、関柴(松本)長門守輔充によって大永二年(1522)に築かれたとされる。松本氏は蘆名氏四天宿老と称された重臣の一であり、大沼郡船岡館を本拠に会津各所に城館を構えて大いに勢力を拡大したが、輔充もその一族であった。
天正十三年(1585)輔充の子備中守輔弘は、桧原を勢力下に収めた伊達氏に内応、入田付より大峠を越える間道を秘密裡に設け、原田左馬介宗時、新田常陸介率いる三千の伊達勢を引き入れた。備中の内応を察知した蘆名勢は、ほかにも同調者がいる可能性もあるとして慎重に行動すべしという意見が大勢を占めたが、中ノ目式部大輔の唱える出陣論でまとまり、直ちに平田、富田、佐瀬、沼沢氏ら諸将が関柴へ向け出陣した。蘆名勢は兵を三軍に分け、中ノ目式部は小荒井村から長窪へ、佐瀬源兵衛は勝村から稲田へ、ほか沼沢出雲守実通らは合して熊倉からそれぞれ中田付村へと進み、伊達勢を大いに撃ち破った。原田、新田らは窮地を脱して退却、最後まで踏み止まった輔弘も姥堂川まで逃れて来たところで出雲守に追いつかれ、組み打ちの末首を掻かれたという。
敗戦のさなか、輔弘嫡男弾正(輔起?)は原田、新田らとともに出羽国長井荘へと落ち延び、また一族も後に弾正の許へと逃れ、以降は伊達氏に仕えた。しかし輔弘の父長門守輔充入道幽閑は捕らえられ、黒川城下に送られた後極刑に処されたという。そして関柴館はこの合戦の後廃されたものと思われる。
なお伊達氏家臣原田宗時は、関柴館を要害城であると思い込んでいたところ、実際は「其居所ヲ見レハ城モナク、只構ノ宜キ屋敷」と述べたという記録が残る。
関柴より関柴ダム、楚々木地区方面へ向かう、入柴集落の字館ノ内、西側山際の平地に比定されており、現在は耕作地として利用されている。規模は東西100間、南北84間とされ、館の飲水として利用されたと伝わる台所清水が現在も残る。なお地元の伝承に、関柴館を扇の要とし、その支館として高橋館、北畑館、赤坂館の三館が設けられていたと伝えられている。また館跡から見て姥堂川の対岸約400mには“関柴備中物見の松”と呼ばれる老木があり、その山頂部には小規模ながら小松山城の遺構が見られるという。
過去何度か訪問していながらもなかなか所在を掴めずにいましたが、とある訪問時に字館ノ内で畑仕事をしていたお母さんにお話を伺う機会を得ました♪
以前は学校の先生とかがよく調べに来てたんだけどね〜なんておっしゃるだけによくご存知で、上記の台所清水、小松山城のことなど色々教えて頂きました。その中でちょっと興味の沸いた話としては、高橋から入柴へ向かう途中に字平石という地名があり、現在はもちろん舗装されていますが、お母さんが嫁に来た頃は未舗装で、平らな石が敷き詰められていたとのことでした。石を敷いていたのは馬の蹄の音が聞こえる様にするためだったとのこと。南に配した支館からの急報がすぐ判る様になんですかね?
蹄の音ってそんな響くのかな…と距離的に疑問もありましたが、妙に納得したのを覚えています。 |
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高橋館 |
高橋館跡付近を南西側より。 |
【所在地】 |
喜多方市関柴町関柴高橋
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【別称】 |
東城 |
【築城年】 |
大永年間(1521-28)頃か |
【築城者】 |
関柴(松本)氏 |
【城主変遷】 |
蘆名氏[関柴(松本)氏]… |
【廃城年】 |
天正十三年(1585) |
【現状】 |
耕作地 |
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関柴館を本拠とする関柴(松本)氏の支城と伝わる城館の一。
文献資料に名は見られず、また土塁、堀跡といった遺構の残存も伝わってはいないが、地元で北畑館(中城)の北東約200mに東城と呼ばれる地点があると伝承されている。従って創建時期、館主など詳細は不明だが、松本長門守輔充が大永二年(1522)に構築した関柴館と同時期に構築された支館であったものと考えられている。
関柴館の支館として一族、家臣が配され、姥堂川西岸に開かれた田畑の経営拠点、そして赤坂館、北畑館とともに南方への防御線としての機能を有していたものと考えられている。しかし天正十三年(1585)、関柴館主松本備中守輔弘の謀叛の後関柴館は廃されており、この館も同時に役目を終えたものであろう。
現在は圃場整備によって潰滅しており、また明治時代の地籍図からも全体的な地割が確認出来ないため、規模を推定することは出来ない。館跡北東隅から南西隅を結ぶ対角線、即ち東南部のほぼ半分近くが姥堂川の氾濫原に含まれているため、その氾濫によって消滅しているものと考えられている。
高橋集落南方の水田が館跡の残存部と思われますが、正直なところ全く判りませんでした。集落南端と水田面は段差がありますが、これが名残なのでしょうかねえ?
村人との遭遇もなく特に情報も聞かれませんでした。 |
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中里館 |
中里館跡付近(善導寺)。 |
【所在地】 |
喜多方市関柴町豊芦中里
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
佐藤氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
善導寺、宅地 |
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年代は不詳ながら、佐藤河内守某なる人物が住していたとされる。東西三十六間、南北四十四間の規模であったという。
集落中心にある善導寺付近が館跡らしいですが、いかんせん情報が少ない…。
なお中里は義理母のご実家のある集落なのですが、そのご実家周辺もなかなか怪しい雰囲気ではあります。結構由緒のある大きな家らしいので、機会があればお話しなど伺いたいものと考えておりますが…あまり家伝などに興味のある方はいない様ですし、何よりわたし自身が最も怪しい人間なモノで(笑) |
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中明館 |
中明館跡。 |
【所在地】 |
喜多方市関柴町西勝三島
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
菅沼氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、耕作地 |
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年代は不詳ながら、菅沼伊賀某なる人物が居住していたとされる。東西三十三間、南北三十二間の規模を持ち、現在も集落内に方形の区画を見ることが出来る。
集落内の長福寺境内地周辺を北西端とし、県道を挟んだ耕作地が南端と思われます。「喜多方市史」に堀跡、土塁などの遺構はないと書かれていますが、宅地周囲の用排水路、集落東端の道路が位置的には堀跡でしょうか。すぐ東側には川が流れているので、水堀、湿地帯に浮かんだ館跡だったことでしょう。
また集落南側、県道に分断された箇所の一部が畑地となって残り、その周囲は全て水田となっています。この畑地から長福寺北側までの範囲が館跡の地割なんでしょうかね。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988)、「喜多方市史
第4巻 考古・古代・中世 資料編I」(喜多方市史編纂委員会1995) |
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