金山町
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駒形館 |
駒形館跡土塁、解説板。 |
【所在地】 | 金山町太郎布
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【別称】 |
太郎布館 |
【築城年】 |
応永十八年(1408) |
【築城者】 |
雪下俊憲 |
【城主変遷】 |
山ノ内氏[雪下氏](1408-1531) |
【廃城年】 |
享禄四年(1531) |
【現状】 |
山林 |
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応永十年(1403)山ノ内通俊が伊北郷横田に下向、中丸城を本拠として一帯に勢力を拡大した。そして通俊に従って下向した雪下(セッケ)和泉之助俊憲(清憲とも)が、通俊の命により同十八年(1408)に当地に構築したのが始まりとされる。
雪下氏は代々鎌倉鶴岡八幡宮のある雪ノ下に住し、鎌倉幕府執権北条氏に仕えていたが、幕府滅亡後の延元二年(1337)に山ノ内氏に仕えたという。享禄四年(1531)、俊憲の孫相模守清則の代に沼沢氏が丸山城を築き山ノ内氏より分家すると、以後はその重臣となった。
館は木冷沢の浸食による天険を利用、南東、南西は巨大な土塁を巡らし、その上に柵を築いて防壁とし、さらにその周囲に空堀を巡らせていた。南側に虎口を設け、門、橋が築かれていたという。237号県道を挟んで西側の山腹には守護神の駒形神社があり、詰城としての意義を持っていたと考えられている。
なお駒形館は山ノ内氏持柵掻場五十一箇所には含まれておらず、沼沢氏が丸山城を築いた際にその役割を終え、廃されたものかと考えられている。
237号県道沿いに所在し、道路脇に“駒形の館跡入口”の看板も建てられていますが非常に分かり難いです(訪問時は既に文字が消えかかってました)。看板から侵入すると土塁がはっきりと確認出来、その手前にしっかりと解説板も設置されています。現存する遺構は素晴らしいのですが…道がない(^-^;
だいぶ前の訪問なので、現在はどーなってるのかなー。 |
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玉縄城 |
玉縄城跡遠望。 |
【所在地】 |
金山町川口
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【別称】 |
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【築城年】 |
天文十三年(1544) |
【築城者】 |
川口俊清 |
【城主変遷】 |
山ノ内氏[川口氏](1544-1590) |
【廃城年】 |
天正十八年(1590)か |
【現状】 |
山林 |
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中丸城主山ノ内氏七騎党持城の一。
天文十三年(1544)山ノ内俊清は長子俊通に中丸城を譲り、領国の支配体制を強化するため末子俊甫と共に川口に玉縄城を築城し移住、以後川口氏を称した。川口氏は3代俊満の頃には家中でも最強を誇る一族となるが、天正十七(1589)出羽国米沢城主伊達政宗の会津侵攻に際し、山ノ内氏宗家との間に隙を生じることとなる。
山ノ内氏一族は、惣領である18代刑部大輔氏勝を筆頭に蘆名義広を救援すべく黒川城下へ向かったが、到着した頃には時既に遅く、義広が実家の常陸国太田城へと落ちた後であった。そこで山ノ内一族は、黒川城に入城した政宗に対して服属を装い他日を期したが、その後氏勝が分家の野尻、川口氏らに無断で中丸城へと帰城、独断で伊達氏と戦端を開いた。その不実を怒った両氏は、伊達氏に内通して本家と争う事態となった。
戦後川口氏当主俊保は伊達氏に臣従、伊達氏が豊臣秀吉によって会津を没収された後は米沢へ、次いで奥州仕置で置賜、信夫郡を失った後は刈田郡へと、伊達氏家臣として従った。
なお、現在宮城県白石市には川口姓があるのに対し、金山町川口には一軒もないそうです。 |
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中井館 |
中井館跡遠望(って実は玉梨温泉…)。 |
【所在地】 |
金山町玉梨
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【別称】 |
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【築城年】 |
天文十三年(1544) |
【築城者】 |
中井政詮 |
【城主変遷】 |
山ノ内氏[川口氏(中井氏)](1544-1590) |
【廃城年】 |
天正十八年(1590)か |
【現状】 |
山林 |
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中丸城主山ノ内氏持柵掻場五十一箇所の一で、川口玉縄城の支城。
天文十三年(1544)山ノ内俊清は長子俊通に中丸城を譲り、末子俊甫と共に川口に玉縄城を築いて移り住んだ。同時に俊清の弟政詮も川口に移住、玉縄城の支城として中井館を築き、以後中井氏を称して居住した。
天正十七年(1589)出羽国米沢城主伊達政宗による会津侵攻の際、中井氏(中井山城守か)は川口氏と共に政宗に臣従して山ノ内宗家と戦い、戦後は政宗に従いこの地を去った。しかし子孫は再びこの地に戻り、氏を佐藤と変えて江戸時代は名主を務め、さらにその後中井姓に復して現在に至っている。
中井館は野尻川、現在の400号国道に沿った玉梨温泉のすぐ南隣に所在しており、この館だけでも十分な要害であったという。しかし詰城として、川、国道を挟んだ金比羅山(館ノ平山)に中井柵が築かれている。 |
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中丸城 |
中丸城跡遠望。 |
【所在地】 |
金山町横田
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【別称】 |
立岩城、荒神城 |
【築城年】 |
応永十年(1403) |
【築城者】 |
山ノ内通俊 |
【城主変遷】 |
山ノ内氏 |
【廃城年】 |
天正十八年(1590) |
【現状】 |
山林 |
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山ノ内氏七騎党持城の一にして、山ノ内氏の本城。
文治五年(1189)源頼朝の奥州合戦の恩賞として、源氏累代の家臣である山ノ内経俊が金山谷、伊北郷を所領として賜り、鷹ノ巣山(要害山)に城を築いて中丸氏を城代としたのが始まりとされる。その後応永十年(1403)10代通俊が横田に下向、その本拠として整備、拡張を行い、以後領内に川口玉縄城、沼沢丸山城、野尻牛首城、滝谷岩谷城といった支城を築いて一族を配した。また固城、持柵掻場を各所に築いて家臣を配し、会津地方西部に大きく勢力を拡大した。
山ノ内氏はその後黒川城主蘆名氏に服属したため、天正十七年(1589)蘆名義広と出羽国米沢城主伊達政宗の間で戦われた摺上原合戦において、18代刑部大輔氏勝は義広救援へと向かった。しかし氏勝が到着した頃には、既に義広は実家の常陸国太田城へと落ちていたため、山ノ内氏一族は伊達氏に服属を装い他日を期した。しかしその後氏勝は野尻、川口氏ら一族に無断で中丸城へと脱出、独断で伊達氏との間に戦端を開いたため、一族は分裂し相争うこととなった。
政宗は、氏勝と袂を別った野尻、川口、布沢氏ら山ノ内一族に道案内を命じ、大槻玄蕃に兵を与えて伊北郷へと侵攻した。同じく伊達氏に臣従した、南山鴫山城主長沼盛秀も伊達氏の尖兵となり氏勝を攻めたが、山ノ内勢も頑強に抵抗したため大きな痛手を被った。しかし兵力の差が大きく、度重なる敵の来襲には持ちこたえられないと判断した氏勝は、中丸城を撤収し、支城の大塩中山城、只見水久保城に拠って持久戦とし、越後国春日山城主上杉氏からの援軍を待った。なお放棄された中丸城には伊達勢が入城、荒神城と名を改められ、山ノ内攻めの前線基地として使用された。
翌天正十八年(1590)、上杉氏からの援軍も到着し、両軍雌雄を決せんとするが、豊臣秀吉の小田原城北条氏攻めへ参陣すべく上杉、伊達両軍が兵を引いたため、遂に氏勝は伊達氏に屈することなく所領の一部を守り抜いた。
しかし小田原城を攻め落とした秀吉は、次いで奥州仕置を実施し、伊達氏が切り取った会津領をのみならず、山ノ内氏が必死に守り抜いた所領をも全て没収、伊達氏に替わって黒川城を与えられた蒲生氏郷の所領とした。氏勝は氏郷の家臣となることを潔しとせず諸国を流浪、その後越後国大浦で失意のうちに死去したとされる。 |
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宮崎館 |
宮崎館跡遠望。 |
【所在地】 |
金山町中川
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【別称】 |
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【築城年】 |
天文十九年(1550) |
【築城者】 |
宮崎行友 |
【城主変遷】 |
山ノ内氏[川口氏(宮崎氏)](1550-90) |
【廃城年】 |
天正十八年(1590)か |
【現状】 |
道の駅奥会津かねやま |
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中丸城主山ノ内氏持柵掻場五十一箇所の一で、川口玉縄城の支城。
天文十三年(1544)横田中丸城主山ノ内俊清は長子俊通に城を譲り、末子俊甫と共に川口に玉縄城を築いて移り住んだ。その際俊甫の女婿である山ノ内右近行友は峰続きの西谷雀ヶ城に居を構えたが、同十九年(1550)頃宮崎村に新たに館を築き、宮崎氏を称して移り住んだ。
天正十八年(1589)蘆名氏を滅ぼした伊達政宗の侵攻の際、宮崎氏も本家川口氏と共に伊達方へ内応した。宮崎右近は川口氏の守将として常に先陣を務め、本名合戦では大将として戦ったとされる。戦後は本家川口氏と共に伊達氏に従い米沢、次いで白石へと移住した。
道の駅奥会津かねやまのすぐ南西に所在しています。今から20年ほども前かな…、城巡りだったか仕事だったか覚えていませんが、昼食のためにこのこぶし館に立ち寄り、アザキ大根高遠そばを食して以来何度となく通ったものです。暫く行ってないなー。 |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「福島県文化財調査報告書第197集
福島県の中世城館跡」(福島県教育委員会1988) |
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