室蘭市
トップさくらとおしろ北海道室蘭市ポロシレト台場
ポロシレト台場
ポロシレト台場勤番所跡土塁。
ポロシレト台場勤番所跡土塁。
【所在地】 室蘭市崎守町
【別称】  
【築城年】 安政三年(1856)
【築城者】 南部氏
【城主変遷】 南部氏(1856-1868)
【廃城年】 明治元年(1868)
【現状】 国指定史跡東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡、崎守神社
 安政三年(1856)盛岡藩南部氏によってに構築されたモロラン陣屋に付随する台場である。陣屋西方約2.5kmのポロシレト(大きな岬)に築かれ、南方の絵柄岬に設けられた台場と併せて、湾内へ進入する異国船に備えた。なお絵柄岬の台場の位置、規模は不明である。

 なおポロシレト台場において大砲の試射が行われた際、約7.5-19kgの柘榴(ざくろ)弾は、目標の約1090mに対して最も飛んだのが約109mであったとされ、酷いものでは僅か2、3mのものもあったという。


 現在は崎守神社境内地となっており、社殿裏に方形の勤番所跡、参道脇に台場跡の土塁が残っています。それほど大きな期待をして訪問した訳ではありませんでしたが、遺構が良好に残っておりなかなか見応えがありましたよ。レンタカーのマットが泥だらけになっちゃったけど(^-^;
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モロラン陣屋
モロラン陣屋跡石碑、南辺土塁表門付近。
モロラン陣屋跡石碑、南辺土塁表門付近。
【所在地】 室蘭市陣屋町2
【別称】  
【築城年】 安政三年(1856)
【築城者】 南部氏
【城主変遷】 南部氏(1856-68)
【廃城年】 明治元年(1868)
【現状】 国指定史跡東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡
 嘉永七年(1854)に締結された日米和親条約により江戸幕府の鎖国政策は終止符が打たれ、続いて英、露、蘭国とも和親条約が締結された。条約により開港が決定した函館には翌安政二年(1855)箱館奉行所を設置されたが、依然としてロシアの南下政策に対する緊張が続いていたため、幕府は松前藩のほか東北諸藩に対して蝦夷地の分割警備を命じ、盛岡藩南部氏に対しては市中の弁天岬、山背泊、押付、立待台場の警備、さらに恵山岬から噴火湾を囲んだ幌別(登別市)までの沿岸警備を命ぜられた。
 盛岡藩は蝦夷地が幕府直轄領であった頃にも函館警備を命ぜられており、寛政十一年(1799)から文政四年(1821)まで使用した水元陣屋を修築して元陣屋とし、その出張陣屋として安政三年(1856)に構築されたのがモロラン陣屋である。なお同時にオシャマンへ(長万部)、砂原にも出張陣屋が構築されており、また元陣屋の土地受領及び出張陣屋の位置選定に当たったのは表目付上山半右衛門、勘定奉行新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)であった。
 この陣屋には100名ほどの藩士が配置され、厳しい風雪に耐えながら沿岸警備に当たったが、慶応四年(1868)の大政奉還、戊辰戦争の勃発に際し明治新政府への引渡を拒み、藩士たちは陣屋を焼き払って本藩へと引き揚げた。

 陣屋は高さ2-3mの土塁で囲まれたほぼ方形となっており、正面となる南辺が東西六十八間(約124m)、東辺が四十四間(約80m)、西辺が三十四間(約62m)の規模であった。南辺中央に表門が置かれ、東辺北側に裏門が置かれており、南辺に水堀、両側面及び背面には空堀が巡らされていた。陣屋西方約2.5kmの崎守岬にはポロシレト台場、及びその南方の絵柄岬にも台場を設け、そして地球岬付近のオイナヲシ(追直)、さらに北東の鷲別岬に見張所を設け、異国船の進入に備えた。なお絵柄岬の台場、オイナヲシ及び鷲別の見張所は位置、規模が不明である。


 進学で札幌へ移住する娘のアパート探しのために4連休を取得して北海道へ渡航しましたが、思いの外とんとん拍子に進んで2日目にはアパート決定。3日目がすっぽりと空白となったために北海道観光の時間が取れ、念願の幕末北辺警備の陣屋跡訪問となりました。
 陣屋跡は周囲の土塁、堀跡が明瞭に残り、また建造物の位置が平面復元されており、期待以上に見応えがありました。しかし史跡巡りを予定してはいなかったので、事前の下調べなどは勿論なし…。機会があったら再訪してじっくりと見たいものです。

【参考文献】「日本城郭大系1 北海道・沖縄」(新人物往来社1980)

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