増毛町
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増毛元陣屋
増毛町総合交流促進施設元陣屋。
増毛町総合交流促進施設元陣屋。
【所在地】 増毛郡増毛町永寿町
【別称】  
【築城年】 安政三年(1856)
【築城者】 佐竹氏
【城主変遷】 佐竹氏(1856-67)
【廃城年】 慶応三年(1867)
【現状】 市街地、増毛町総合交流促進施設元陣屋
 嘉永七年(1854)に締結された日米和親条約により江戸幕府の鎖国政策は終止符が打たれ、続いて英、露、蘭国とも和親条約が締結された。条約により開港が決定した函館には翌安政二年(1855)箱館奉行所が設置されたが、依然としてロシアの南下政策に対する緊張が続いていたため、幕府は松前藩のほか東北諸藩に対して蝦夷地の分割警備を命じ、久保田藩佐竹氏に対してはマシケ(増毛)からソウヤ(宗谷)、モンベツ(紋別)にかけての北蝦夷地、及びリイシリ(利尻)、レプンシリ(礼文)、そして樺太の警備を命じた。
 安政三年(1856)久保田藩は増毛に元陣屋を設置、150〜200名ほど衛士が置かれ警備、開拓に従事した。また宗谷、樺太にも出張陣屋を置いたが、冬季は元陣屋へ戻り越冬していた。
 しかし久保田藩は、領内での度重なる災害や凶作による支出の増加や、京都守護を兼ねるための兵力分散などから北方警備の遂行が困難となり、幕府へ警備の免除を願い出た。そして慶応三年(1867)、その嘆願が聞き容れられたことで任が解かれ、久保田藩の警備地は再び幕府へと上知された。


 陣屋は総建坪1160坪ほど敷地内に28棟の建造物が築かれ、付近には侍屋敷、足軽屋敷合わせて100棟ほど、ほか士分の従僕、小物、諸職の長屋が築かれていた。また後年には河川より水を導入し堀を構築した。そして日本海を臨む場所には第一台場第二台場を設け、沿岸の警備に当たっていた。
 なお、箱館奉行の巡検に随行し当地を訪れた仙台藩士玉虫左太夫は、「海岸より遠い低い平地にあり、何故この様な見通し利かない場所に陣屋を構えたのかわからない」と日記に記している。しかしこの立地は、文化年間(1804-18)の北方警備の際に津軽藩が多くの犠牲を出したことを教訓とし、海岸より奥まった丘陵の陰に構築することで冬季間の風雪を凌ぐことを重視したためとも考えられている。


 増毛町永寿町一帯が陣屋跡であり、現在は"増毛町総合交流促進施設 元陣屋"という陣屋風の外観を持つ公民館?が建てられています。内部には元陣屋に関する展示もある様ですが、今回の目的地である苫前町はまだまだ先…のため見学は断念。結果的にまた行かなきゃならなくなった(-_-;ので、再度訪問しますわー。
トップさくらとおしろ北海道増毛郡増毛町増毛元第一台場
増毛元陣屋第一台場
増毛元陣屋第一台場跡。
増毛元陣屋第一台場跡。
【所在地】 増毛郡増毛町弁天町
【別称】  
【築城年】 安政三年(1856)
【築城者】 佐竹氏
【城主変遷】 佐竹氏(1856-67)
【廃城年】 慶応三年(1867)
【現状】 宅地
 安政三年(1856)久保田藩佐竹氏によって構築された増毛元陣屋に付随する台場である。陣屋東方約400m、現在の増毛港を見下ろす丘陵上に築かれ、ドイツ製ホイッスル大砲一門、和製大砲三門が据えられた。なお第二台場は陣屋西方約1kmに所在する。
 ロシアをはじめとした異国船の来航に備え、それを打ち払うべく設置された砲台であるが、しかし異国船をが姿を現した際も「決してこちらから攻撃してはならない」と箱館奉行所より通達されており、何より穏便が第一であったという。


 JR留萌本線旧増毛駅南側丘陵上、増毛灯台が位置する一段下の位置に所在する。現在周囲は宅地となっており遺構はなく、標柱、説明板が設置されているのみである。


 …なーんて書いてみましたが、画像を見て分かる通り標柱も説明板も見ていません(-_-; 本来であれば画像の舗装が切れる辺りに設置されている様なんですけどね。
 目印となるものがある〜と思って元陣屋から向かいましたが、付近をうろうろしても全く見つからない…。ネット上の画像を見てここだ!と思っても解説板はない…。そこですぐ近くの民家に住民の方がいたので訊いてみると、冬に向けて一旦撤去したんじゃないかな?とのお話でした(-_-;
トップさくらとおしろ北海道増毛郡増毛町増毛元第二台場
増毛元陣屋第二台場
増毛元陣屋第二台場跡説明板、大砲レプリカ。
増毛元陣屋第二台場跡説明板、大砲レプリカ。
【所在地】 増毛郡増毛町別苅
【別称】  
【築城年】 安政三年(1856)
【築城者】 佐竹氏
【城主変遷】 佐竹氏(1856-67)
【廃城年】 慶応三年(1867)
【現状】 陣屋展望台
 安政三年(1856)久保田藩佐竹氏によって構築された増毛元陣屋に付随する台場である。陣屋西方約1km、暑寒別川河口西側の高台に設置され、和製大砲二門が据えられた。なお第一台場は陣屋東方約400mに所在する。
 ロシアをはじめとした異国船の来航に備え、それを打ち払うべく設置された砲台であるが、しかし異国船をが姿を現した際も「決してこちらから攻撃してはならない」と箱館奉行所より通達されており、何より穏便が第一であったという。


 231号国道沿に所在し、現在は陣屋展望台となっており標柱、説明板と大砲のレプリカが設置されている。昭和四十五年(1970)の国道改修時に砲座が確認されたことで位置が特定されたが、現在遺構は見られない。往時は周囲を土塁に囲まれた台場であった。


 国道沿、その名も陣屋展望台ってことですぐに判りましたが、海沿いなだけに訪問時はエラい強風でございました。さらに先を急ぐということもあり定番の説明板、大砲のレプリカを撮影してすぐ移動しましたが、その後第二台場探しで時間を取られ昼時に…。せっかくだからこの展望台にある食堂"陣屋"で食べれば良かったなー。
トップさくらとおしろ北海道増毛郡増毛町増毛勤番越冬陣屋
増毛勤番越冬陣屋
増毛勤番越冬陣屋跡説明板。
増毛勤番越冬陣屋跡説明板。
【所在地】 増毛郡増毛町稲葉町
【別称】  
【築城年】 文化六年(1809)
【築城者】 津軽氏
【城主変遷】 津軽氏(1809-21)
【廃城年】 文政四年(1821)
【現状】 市街地
 18世紀末、日本との通商を求めるロシアの使節が度々接触を図り、寛政四年(1792)にはアダム・ラクスマンが根室へ、文化元年(1804)にはニコライ・レザノフが長崎へ、それぞれロシア皇帝エカチェリーナ2世、アレクサンドル1世の親書を携え来航するも、何れも鎖国を理由に江戸幕府より拒絶された。その結果レザノフは武力を以て開国を要求すべしとする意見を皇帝に上奏、後に撤回したものの、部下のニコライ・フヴォストフが独断で水兵を率いて択捉島、利尻島へ上陸し、日本側の会所、番屋を襲撃、略奪を行った。文化露寇(フヴォストフ事件)と称される出来事である。

 この事件を受けて北方警備の重要性を認識した江戸幕府は、松前藩を陸奥国梁川へ移封して蝦夷地全域を天領とし、東北諸藩へ蝦夷島の沿岸警備を命じた。そしてソウヤ(宗谷)、シャリ(斜里)、樺太の守備を命じられた弘前藩は、各所に陣屋を構え、ロシアをはじめとする異国船の警備に当たった。
 しかし北蝦夷地の厳しい気象条件により、シャリへ派遣された100名中72名、ソウヤでも30名ほどが極寒とビタミン不足による浮腫病によって死亡するなど、多くの藩士を失うこととなった。弘前藩は幕府にこの窮状を訴え善処を願い出、文化六年(1809)以降増毛に構築した勤番陣屋での越冬を聞き容れられた。


 現在遺構は残っておらず、市街地に説明板が設置されるのみである。当時宗谷、樺太へ派遣された人員は200〜300名と推定されており、往時はかなりの規模の陣屋であったものと推定される。


 増毛元陣屋に向かう途中に立ち寄りましたが、"越冬"陣屋とはなんじゃ?という感じでの訪問でした。その後調べてみて、現在でも寒さの厳しい道北の地で、当時の備えで冬を越した弘前藩士たちの受難を知りました。今のところ宗谷陣屋斜里陣屋まで脚を延ばす機会を得ていませんが、娘が北海道に住んでいる間には何とか行きたいですね…冬季以外に(-_-;

【参考文献】「日本城郭大系1 北海道・沖縄」(新人物往来社1980)

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