行方市
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小高城 |
小高城跡解説板(後方台地が四郭)。 |
【所在地】 |
行方市(旧行方郡麻生町)小高
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【別称】 |
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【築城年】 |
建久三年(1192) |
【築城者】 |
小高為幹 |
【城主変遷】 |
小高氏(1192-1591)−佐竹氏[大山氏](1591-1602) |
【廃城年】 |
慶長七年(1602) |
【現状】 |
耕作地 |
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常陸国大掾氏一族行方太郎宗幹(景幹)の長子小高為幹が、元暦元年(1184)行方を分与され、その後の建久三年(1192)に築城したとされる。また文治元年(1185)の源平合戦の折、宗幹、為幹父子が源頼朝に従い屋島合戦に参加するも宗幹が討死、その功に報いた頼朝より為幹が父の遺領の内行方を分与されたともいう。なお宗幹次子高幹は嶋崎、三子家幹は麻生、四子幹政は玉造をそれぞれ分与されている。
為幹以降その子孫は小高氏を称し19代にわたって小高城に居城、ほかの大掾氏一族もそれぞれ勢力を拡大し、中世を通じて常陸国南部に大きく影響を及ぼした。しかし戦国時代末期になると、常陸国統一を図る太田城主佐竹義宣が進出し、大掾氏一族との抗争が激化する。義宣は“南方三十三館”と称された大掾氏一族ら国人衆の結束を危惧し、それらの勢力を一掃すべく策を講じ、天正十九年(1591)太田城下に参集させとごとく殺害した。その後領主を失った常陸国人衆の居城は次々と攻略され、佐竹氏によって常陸国統一が果たされた。
小高氏滅亡後、小高城には佐竹氏家臣大山義則が城代として置かれたが、慶長五年(1600)佐竹氏が関ヶ原合戦で西軍に与する動きを見せたため同七年(1602)出羽国秋田へと移封され、それに伴い廃城となった。
常光院の東側に所在する大規模な城で、北東から南西にかけて4つの曲輪が連続しています。現在は主に畑地となっていますが、かなり大規模な空堀跡などが確認でき、なかなか見応えのある城だと思います。
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木崎城 |
木崎城跡主郭部(香取神社)遠望。 |
【所在地】 |
行方市(旧行方郡北浦町)内宿
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【別称】 |
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【築城年】 |
戦国時代末期 |
【築城者】 |
武田通信 |
【城主変遷】 |
武田氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
香取神社、耕作地、工場 |
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戦国時代末期に甲斐国武田氏の流れを汲む武田通信が築城し、神明城より居城を移したとされる。
甲斐国武田氏は、源義光(新羅三郎)の子武田冠者義清が常陸国那珂郡武田郷に所領を得たのがそもそもの発祥とされる。大治五年(1130)義清の嫡男清光の狼藉が原因で甲斐国へと配流されて以降当地で勢力を拡大したが、明徳三年(1392)12代信春の子信久が当地へと移住し、支配地を武田郷と称して居住したのがこの常陸武田氏である。武田氏は初め神明城を居城としていたが、戦国時代末期に城の拡張が必要となり、8代通信が木崎城を築いて居城を移したという。
なお、子孫は水戸徳川氏に剣術指南役として仕官し、その流派である武田新当流は今日まで続いている。
現在は主郭部が香取神社の社地となっており、その南側の354号国道付近までが城跡の様で、主郭部周囲には土塁、空堀が良く残っています。国道から香取神社へと続く参道を進むと畑地となっている郭に入りますが、その参道の東側には土橋が残り、その左右には横矢掛かりと見られる箇所があります。またその周囲の空堀の規模はエライもんです。
残念ながら天候が悪く、肝心な遺構の写真もロクなのが撮れませんでしたが、非常に見応えのある城跡です。 |
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島並城 |
島並城跡(是心院)。 |
【所在地】 |
行方市(旧行方郡麻生町)島並
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
島並氏か |
【城主変遷】 |
島並氏… |
【廃城年】 |
天正十九年(1591)か |
【現状】 |
是心院 |
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常陸大掾氏一族行方氏の流れを汲むとされる島並氏の居城。
島並氏の出自は明確でないが、天正十九年(1591)大掾氏一族を中心とする常陸国南部の国人衆“南方三十三館”が水戸城主佐竹義宣の謀略でことごとく滅ぼされた際、島並城主島並入道幹家は開城して佐竹氏に降ったという。ほどなく幹家は死去し、その遺臣藤崎権右衛門が亡君を弔うために建立したのが、現在城跡に所在する是心院である。幹家の子である左衛門大夫幹国は、佐竹氏家臣となり水戸城へ出仕したが、行方郡の取締で当地へ訪れた際、藤崎氏の誠心に感じて島並の姓を与えたと伝わっている。
是心院背後の高所が城跡とされますが、境内も城地に含まれていたと考えられます。しかし夕方の訪問、また藪もあって背後の墓地から上には上がれず、詳しく見ることは叶いませんでした。寺院の両側は切り立った崖になっており、丘陵全体が城跡だったようです。 |
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富田城 |
富田城跡(霞稲荷神社)。 |
【所在地】 |
行方市(旧行方郡麻生町)富田
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【別称】 |
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【築城年】 |
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【築城者】 |
富田氏か |
【城主変遷】 |
富田氏… |
【廃城年】 |
天文五年(1536)以降 |
【現状】 |
霞稲荷神社、県営霞住宅 |
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常陸国大掾氏一族行方氏の流れを汲む富田氏の居城であったとされる。
天文五年(1536)城主富田吉幹は、同族である玉造城主玉造宗幹が同じく同族の嶋崎城主嶋崎利幹を攻めた際、後者に与して討死したとされる。その後富田城は玉造氏に占拠され、富田氏は滅亡した。
昭文社の茨城県都市地図に記載があり、お城マークのすぐ上に記載される霞稲荷神社の辺りへ行ってみましたが、何の手掛かりもありませんでした。全くの平坦地で遺構らしきものもなく、すっとぼけた場所に行ってたのかもしれません…。 |
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【参考文献】「日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬」(新人物往来社1979) |
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