龍ケ崎陣屋跡解説板。 |
【所在地】 |
龍ケ崎市田町
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【別称】 |
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【築城年】 |
慶長十一年(1606)、明治四年(1871) |
【築城者】 |
伊達氏、米津政敏 |
【城主変遷】 |
伊達氏(1606-1868)…米津氏(1代・1871) |
【廃城年】 |
明治四年(1871) |
【現状】 |
市街地、宅地 |
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陸奥国仙台藩主伊達氏龍ケ崎領支配の出張陣屋。また明治維新後立藩された龍ケ崎藩米津氏の藩庁となった陣屋である。
慶長十一年(1606)仙台藩主伊達政宗は、江戸幕府より常陸国信太郡内13箇村、河内郡内13箇村、筑波郡内3箇村、及び下総国豊田郡内1箇村の計1万石余を与えられた。政宗はこの飛領内最大の1200石余であった河内郡龍ケ崎村を拠点と定め、龍ケ崎城北西麓に陣屋を構えて支配した。その後の寛文三年(1663)、龍ケ崎村を除く河内郡内の所領と筑波郡内4箇村の所領替などはあったが、慶応四年(1868)の戊辰戦争によって代官を初めとした役人が当地を離れるまで一円支配の拠点となった。
戊辰戦争後の明治四年(1871)、米津政敏が上総国大網陣屋より当地へ藩庁を移し、龍ケ崎藩が立藩された。
米津氏は武蔵国内で5千石を知行した旗本だったが、寛文六年(1666)米津田盛が大坂定番に任ぜられた際に1万石を加増され大名に列した。貞享元年(1684)田盛の死去に伴い、子の政武はその遺領のうち3千石を弟田賢に分知し、自身は武蔵、下総、上総、摂津、河内国内1万2千石を相続(その後摂津、河内国分は常陸国内に領知替となる)、武蔵国久喜陣屋を設けて初代久喜藩主となった。以後米津氏は寺社奉行、大番頭、大坂定番など幕府の要職に任ぜられ、また封地も度々変更となったが、寛政十年(1798)5代通政が武蔵国内から出羽国村山郡への領知替となり、長瀞陣屋に居を移して長瀞藩を立藩した。なお長瀞藩が成立した後も、米津氏の所領は出羽国村山郡のほか上総、下総、常陸
国に分散しており、また村山郡内の所領も細かく分散されていた。
慶応四年(1868)戊辰戦争が勃発、奥羽越列藩同盟に与した長瀞藩領内は戦火に見舞われる。陣屋、町屋を失った長瀞藩5代藩主(久喜藩主時代を含めると10代藩主)米津政敏は、翌明治二年(1869)版籍を奉還し長瀞藩知藩事となるが、同年上総国山辺郡大網陣屋へと藩庁を移し大網藩を立藩、大網知藩事となった。その後政敏は各地に分散して所在する所領を一まとめにする様新政府に願い出、明治四年(1871)出羽、上総、下総国の所領の代地として常陸国河内郡内に1万1千石を与えられ、龍ケ崎藩が立藩された。しかし長瀞藩時代から続く財政難によって財政は破綻寸前であり、新政府に嘆願した5千両も叶うことはなかった。そして同年、廃藩置県により政敏は知藩事を免ぜられ、龍ケ崎藩は廃藩となった。
現在の龍ケ崎小学校正門付近が仙台藩龍ケ崎陣屋が設けられた場所であるとされます。解説板が小学校正門脇、敷地を背にして設置されていることもあり、陣屋跡地に小学校が建てられた様に見えますが、"都合上あそこに設置するしかなかったんですよねー"的なことを市歴史民俗資料館の方がおっしゃってました。実際は正門から道路を挟んだ反対側だった様です。なお龍ケ崎藩時代の陣屋の位置は正確には判っていない、とおっしゃっていましたが、時代的にも大きな隔たりがないので、取り敢えず一緒に記載しています。
仙台生まれ会津在住のわたしにとって、伊達氏、蘆名氏との所縁のあるここ龍ケ崎市は是非とも訪問したい場所だったので、非常に嬉しかったですd(^-^)b |