つくば市
旧筑波郡筑波町(〜S63) |
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小田城 |
小田城跡石碑。 |
【所在地】 |
つくば市小田
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【別称】 |
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【築城年】 |
文治元年(1185) |
【築城者】 |
八田知家 |
【城主変遷】 |
八田(小田)氏(1185-1569)−佐竹氏[太田氏、梶原氏、小場氏](1570-1602) |
【廃城年】 |
慶長七年(1602) |
【現状】 |
国指定史跡、小田城跡歴史ひろば、宅地、耕作地 |
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平安時代末期、関白藤原道兼の後裔八田権守宇都宮(藤原、中原)宗綱の次子八田知家は、源頼朝の挙兵に従い富士川合戦、金砂山城攻撃の功により常陸国の統率者と認められた。そして文治元年(1185)頼朝による守護、地頭の設置が公認されると、知家は常陸国守護に任ぜられ、小田に居館を築いたのが起源という。
知家は源平合戦で源範頼に従い活躍、また文治五年(1189)の奥州合戦では千葉常胤と共に海道の大将として活躍する。建久三年(1192)鎌倉幕府が開かれると問注所に出仕し、北條氏、大江氏、三浦氏、和田氏、比企氏らと並んで幕政の中枢を担った。そして翌年には、多気城を本拠に常陸国南部に勢力を張っていた常陸国大掾多気義幹を府中城へ逐い、以降常陸国守護として伸張して行った。
八田氏は4代時知から小田氏を称したとされ、鎌倉時代末期には7代民部大輔治久が小田城にあった。治久は初め幕府御家人として執権北條高時に従い、元弘二年(元徳四・1332)後醍醐天皇の隠岐配流に当たっては護送役を勤めている。しかし後醍醐天皇重臣万里小路藤房が常陸国へ配流となり、支城藤沢城に預かりとなってからは、藤房の熱心な説得もあってか天皇方に与する様になり、幕府滅亡に際しては藤房と共に上洛している。
建武の新政を経て、室町幕府が成立し南北朝時代を迎えた後も、小田氏は南朝方に与して抗争した。延元三年(暦応元・1338)南朝方の北畠親房は海路常陸国志太郡東条浦へ上陸し神宮寺城に入ったが、佐竹、大掾氏らに攻められ阿波崎城へ逃れた。しかし阿波崎城も佐竹氏らの攻撃を受け落城、そこで治久は親房を小田城へ迎え入れた。治久は左近衛権少将常陸介及び守護に任ぜられ、関城主関宗佑、大宝城主下妻政泰、伊佐城主伊達行朝、志筑城主益戸国行、駒城主中御門実寛、馴馬城主春日顕国、真壁城主真壁幹重らと共に高師冬を中心とする北朝方に対抗した。抗争の最中の延元四年(暦応二・1339)、吉野に於いて後醍醐天皇が崩じ後村上天皇が即位するが、その際に親房が著した『神皇正統記』『職原抄』は小田在城中に書かれたものであった。
興国二年(暦応四・1341)、興良親王を小田城に迎え入れさらに意気上がる南朝勢力の堅い守りを崩せないと悟った師冬は、心理作戦で南朝勢力の切り崩しを図った。そしてついに同年、治久は和平工作に応じて小田城を開城、親房は関城へ、興良親王と春日顕国は大宝城へと移り抗戦を続けた。治久はといえば、老獪な師冬により和平の条件を全て破棄され、官位官職を取り上げられた上に領土も削減され、関城、大宝城の攻撃に向かわせられた。これ以降小田氏は、関東八屋形の一としての栄誉は残ったものの凋落して行くこととなる。
戦国時代、15代氏治の代には勢威はもはや過去のものとなっていた。結城城主結城氏、太田城主佐竹氏らとの合戦に及んでは敗れ、度々家臣菅谷氏を頼り土浦城へ逃れている。そして落城の都度小田城の奪還を果たしていた氏治も、永禄十二年(1570)佐竹氏麾下の真壁道夢に手這坂合戦で大敗して以降は復帰することは叶わなかった。氏治はその後も土浦城、木田余城を拠点として佐竹氏に抵抗するも、遂に天正六年(1578)子の金寿丸を人質に差し出し佐竹氏の軍門に降った。
佐竹氏勢力下となった小田城は元亀元年(1570)太田三楽斎資正に与えられたが、翌年資正の次子梶原政景に譲られ、その政景によって大規模な改修を加えられたと考えられている。さらにその後は佐竹氏一族小場義宗が城主となったが、慶長七年(1602)佐竹氏の出羽国秋田への移封に伴い廃城になった。
平成十七年(2005)の発掘調査現地説明会に参加し初訪問して以降、ほぼ毎年現説で訪問している城館です。広大な城域は耕作地としての使用箇所が多く、市街地化されずに残っていたことに初訪問時は驚きました。資料を見て訪問前から判ってはいましたが、本丸が思いっ切り関東鉄道筑波線によってぶった切られているのも驚きましたね〜(笑)。現在は史跡公園とし整備されており、現説に参加する度にその整備が進んでおります。
なお、戦国時代の小田城は氏治の不甲斐なさばかり目立つ落城→復帰の繰り返しなので詳細は割愛しました(笑)
南北朝時代が小田氏、小田城にとって輝かしい歴史の表舞台だった頃ですしね〜。まあ…決して面倒くさかった訳では…(以下略)。 |
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多気城 |
小田城跡石碑。 |
【所在地】 |
つくば市北条
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【別称】 |
多気山城、城山城 |
【築城年】 |
平安時代、戦国時代 |
【築城者】 |
平維幹(、小田氏、上杉氏、佐竹氏) |
【城主変遷】 |
平(多気)氏… |
【廃城年】 |
建久四年(1193)、戦国時代以降 |
【現状】 |
私有地、宅地、山林 |
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平安時代、常陸大掾平国香の孫維幹によって構築されたのが起源であるとされる。維盛は初め水守城にあったため水守大夫と称していたが、この多気城に移って後、多気権大夫、平大夫を称したという。
維幹以降常陸大掾職を世襲した多気氏は、多気城を本拠に常陸国南部に大きく勢力を伸張した。しかし建久四年(1193)、常陸国守護となった小田城主八田知家の謀略により、維盛の6代孫太郎義幹が鎌倉への叛意ありと訴えられ、その結果所領を全て没収されてしまった。そしてその所領は、一族である馬場小次郎資幹に大掾職と共に与えられ、身は園部権頭泰綱に預けられた。城山の麓には伝多気太郎の墓が残っており、名君とされた義幹は今でも地元住民に“たきたろさま”と呼ばれ親しまれているという。
なお維幹の子致幹(多気権守宗基)の女が源頼義との間に女を儲けたとされるが、その女が出羽国の豪族清原真衡の養嗣子成衝に嫁している。その婚礼の席において、清原氏一族の重鎮であった吉彦秀武が真衡より非礼を受けたことが、永保三年(1083)の後三年合戦の発端となっている。
多気氏没落以降の経過は不明ながら、現在残る遺構は永禄年間(1558-70)から慶長年間(1596-1615)にかけてのものと考えられており、戦国時代に改修が行われたと推定されている。その使用目的は明確でないが、小田氏一族北条五郎顕家居館小泉館の詰城、上杉謙信または佐竹義重が小田城を攻める際に構築した陣城、または佐竹義宣が関ヶ原合戦に際して東軍の侵攻に備え構築した、などとする説がある。
写真は平沢官衙遺跡から撮影したものです。と言うのも、訪問時に多気城周辺を走ってみたものの上り口が判らず上れなかったんです。で、平沢官衙遺跡案内所のおばちゃんに訊いてみたところ、「以前は常陸さんという方の私有地だったが、今はどこかの宗教法人に売却され上り口も閉鎖されてる様だ」との事でした。頂いた資料には城山として紹介されているので、完全に閉鎖されている訳じゃないのかなぁ…? |
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平沢官衙遺跡 |
小田城跡石碑。 |
【所在地】 |
つくば市平沢
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【別称】 |
筑波郡衙 |
【築城年】 |
奈良、平安時代 |
【築城者】 |
古代律令政府 |
【城主変遷】 |
古代律令政府 |
【廃城年】 |
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【現状】 |
国指定史跡、歴史公園 |
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奈良、平安時代に置かれた筑波郡衙である。8世紀以前から11世紀にかけて概ねI〜V期に分類されており、主要な時期は8世紀前半から後半のII〜III期とされている。各期の礎石建物群、その周囲を囲む大溝が確認されており、大溝がIII期のものと考えられているため、現在は同時期の3棟の建物が立体復元され、ほかは平面復元されている。
写真左から板倉造高床式倉庫、高床土壁塗双倉、校倉造高床式倉庫です。復元された建物にはそれぞれ解説板があります。周囲の大溝は西溝110m、北溝160mが復元されていますが、それはさらに指定地外へと延びているそうです。
駐車場脇には案内所があり、夕方に訪問したにもかかわらず遺跡のみならず、多気城や市内に残る様々な史跡についてご教示頂きました。 |
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【参考文献】「日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬」(新人物往来社1979)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992) |
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