角田市
旧伊具郡藤尾村(〜S29) |
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医王城 |
医王城跡遠望。 |
【所在地】 |
角田市藤田
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【別称】 |
渭陽城、伊与城 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
亘理氏か |
【城主変遷】 |
亘理氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
宅地、山林 |
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築城年代、築城者は不明、城主として亘理兵庫頭元宗の名が伝わる。亘理郡亘理城を本拠とした亘理(武石)氏が、伊具郡に勢力を拡大した戦国期に構築、居住したものか。
比高約30m、東西約100m、南北約350mの丘陵全体を利用した城であり、最高所の東西約70m、南北約50mの楕円形平場が本丸となる。本丸は東から南にかけて土塁が残り、土塁の北端に城門跡が認められるという。本丸北側には東西約70m、南北約100mの二の丸が続き、本丸同様東側に土塁が見られる。城跡北端には高さ約4mの土塁、幅約6mにも及ぶ空堀が認められ、一角は土塁が切られて緩やかに水田地へと続く通路が確認出来、往古は船着場であったろうとも考えられている。
城跡東側、現在民家となっている付近が大手であったと紫桃正隆氏は推定している様ですが、その付近に解説板が建てられています。同氏はその著作である「仙台領内古城・館」で、“斯道の人々の必見の城館址として推薦”していますが…解説板よりも非常に目立つ“立入禁止”の看板が設置されており、子細に見て回るには些か抵抗が…(^-^;
初めて訪問した際は時間の関係もあり、最大の見どころである北側の遺構を見ることも出来なかったので、是非とも見事であろう土塁、空堀を見に再訪したいと考えています。 |
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八竜城 |
八竜城跡入口。 |
【所在地】 |
角田市藤尾
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【別称】 |
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【築城年】 |
天喜年間(1053-58)頃か |
【築城者】 |
平永衡 |
【城主変遷】 |
平氏… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
愛宕神社、山林 |
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天喜年間(1053-58)頃、伊具十郎平永衡が築城したと伝承されるが確証はなく、仮に永衡の築城が真実であればそれ以前の築城が妥当だろう。
永衡は伊具郡の郡司とも、陸奥国府多賀城に勤務した在庁官人であったともいわれ、平氏に連なる一族に間違いは無いであろうがその系譜ははっきりとしない。陸奥国奥六郡に勢力を拡大した俘囚長、安倍頼良の女を妻に迎えており、安倍貞任は義兄、亘理郡にあった藤原経清は相婿に当たる。
天喜四年(1056)、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義の度重なる挑発により、安倍氏が兵を挙げて前九年合戦が始まると、永衡、経清は国府軍に加わり頼義に従って戦った。しかし両者とも頼時(頼良より改名)の女婿であることから信任を得られず、また永衡に対しては、この時着用した派手な鎧が敵方に自軍の位置を知らせるためのものであると讒言する者が現れたため、安倍勢への内通を疑われて殺害された。これが引き金となって、経清は安倍勢に身を投じることとなる。
内町溜池にせり出した丘陵頂部が本丸とされ、周囲には腰郭、段築が巡らされている。東西120m、南北30mの細長い本丸跡には現在愛宕神社が祀られ、城域には空堀、土塁、井戸跡などが残る。またこの付近には、永衡が八幡太郎源義家と戦ったと伝承される、一ノ矢、二ノ矢、三ノ矢という場所があるという。
伊具郡内には平永衡に関する伝承がさすがに多いですが、やたらとお城を築いてますねぇ。まあ安倍貞任や源義家の伝承も東北地方にはやたらとありますし、弘法大師なんてそれこそ全国規模ですけどね。何れもその伝承の中に真実があるのかも知れませんが、この辺で永衡と義家が戦ったってのは無理がある気がするけどなあ? |
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【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981) |
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