栗原市
旧栗原郡栗駒町(〜H17)
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長綱沢館
長綱沢館跡標柱。
長網沢館跡標柱。
【所在地】 栗原市栗駒片子沢長網沢
【別称】 片子沢城、片子沢在所
【築城年】  
【築城者】 片子沢氏か
【城主変遷】 葛西氏[片子沢氏]…伊達氏[中地氏、ほか]
【廃城年】  
【現状】 山林
 館主は片子沢但馬守とされ、葛西氏家臣と考えられている。
 藩政時代には片子沢に在所が置かれ、仙台藩主伊達氏家臣中地氏が居住、享保元年(1716)在郷拝領で磐井郡相川へ所替となっている。この片子沢在所が長網沢館の地であるかは不明だが、片子沢には他に城館、屋敷は伝わっていない様である。


 高さ約60mの丘陵上に、東西約100m、南北約50mほどの広さで両端が一段高くなった主郭部とみられる楕円形平場がある。平場の周囲は全て空堀によって囲まれており、東面の大手口と推定される箇所の外周には土塁が積まれ、桝形の構えが見られるという。丘陵東面の窪地には池の跡が認められ、往古の水堀もしくは水の手の跡と推定されている。


 県道脇に標柱が建てられていますが、特に解説の記載はありません。また標柱や遺跡地名表には長網沢館と記載がありますが、「日本城郭大系」「仙台領内古城・館」にはその名前での記載はなく、“片子沢城”の記載はあります。前述の通り片子沢でほかに城館、屋敷跡は見られないの様なので、片子沢城=片子沢在所=長網沢館だと思うんですが…。
 この混乱を助長しているのが、この標柱の場所がどこにあったのかしっかりと憶えていないわたしの記憶(^-^; 実際に遺構も拝んではいないので、是非とも再訪したいと思います。
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鶴丸城
鶴丸城跡遠望及び解説板。
鶴丸城跡遠望及び解説板。
【所在地】 栗原市栗駒岩ケ崎裏山
【別称】 岩ヶ崎城、岩ヶ崎要害、岩ヶ崎所
【築城年】 南北朝時代
【築城者】 富沢道祐
【城主変遷】 葛西氏[富沢氏]…伊達氏[伊達氏、石母田氏、田村氏、古内氏、茂庭氏、中村氏]
【廃城年】 明治二年(1869)か
【現状】 館山公園、岩ヶ崎小学校
 藩政時代の仙台藩主伊達氏要害の一。創建は南北朝時代、葛西氏の一族とされる富沢右馬助によって築城されたという。

 富沢氏祖右馬助は、岩切城合戦で吉良氏に与して戦功を挙げ、その恩賞で三迫富沢郷を与えられた。そして岩ヶ崎に鶴丸城を築き、以後を富沢日向守道祐を称したという。なお右馬助は葛西蓮性の第十子と伝わるが、蓮性自身が誰であるかもはっきりとせず、そもそも平姓であるかも不明である。道祐以後富沢氏は5代にわたって鶴丸城を本拠とし、葛西領北西部に大いに勢力を拡大した。

 富沢氏は葛西氏重臣ではあったが、大崎氏との勢力の接点である栗駒山系に広大な所領を持っていたため独立色も強く、度々主家に対して露骨な叛意を見せていた。室町時代中期から戦国時代にかけて、4代直綱は大崎氏に通じていた様子も見られ、天正年間(1573-92)初め頃には度々葛西氏より討伐を受けている。その後も謀叛を繰り返して勢力がやや衰えるも、葛西氏に対する反抗姿勢は変わらず、天正年間末期には
岩手沢城の大崎氏重臣氏家弾正直継とともに伊達政宗と誼を通じ重用されている。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉より奥州諸大名の許に
小田原城討伐への参陣を命ずる使者が訪れた。葛西氏は富沢氏、そして同じく重臣であった気仙郡の浜田氏の不穏な動きによって身動きが取れず、ついに参陣を果たせず改易となった。富沢氏5代日向守直景は当時伊達政宗に従っていた様であるが、奥州仕置の後は何故か伊達氏ではなく南部氏に仕官を果たし、子孫は盛岡藩士として存続している。慶長六年(1601)和賀兵乱においては、富沢日向守武光入道幽斎が南部氏の部将として伊達勢と戦っている。なお直景は葛西晴信に従って大崎、葛西一揆に荷担、佐沼城で討死して滅亡したともいわれており、南部氏に従ったのは別系であろうか。

 江戸時代になると岩ヶ崎は政宗の五男宗綱が邑主となり、後見役として同行した茂庭石見守綱元の補佐で5万石の城下町を築く計画が立てられたが、宗綱は僅か15歳で早世、次いで弟の六男宗信が邑主となるも24歳で死去した。その後は石母田大膳宗頼が入封し麓に居館を移し、次いで田村氏、古内氏、茂庭氏が相次いで入封した。そして元禄七年(1694)磐井郡
藤沢城より中村氏が入封し、以後明治維新まで居住した。中村氏は初め新田氏を称した伊達氏累世一家の重臣であり、功により伊達氏の旧姓である中村姓を賜ったという。

 なお鶴丸城は、江戸時代初期には城に準ずる要害拝領であったが、中村氏が入封した頃に所拝領と形態が変更となっている。


 東西約650m、南北約600mの壮大な規模を持つ、当地方を代表する山城であった。丘陵上に細長く4箇所の平場が並び、最高所となる西端の平場が本丸、そこから東へ二の丸、三の丸、蛭子館と続く。各曲輪は平場や腰曲輪、土塁、堀切などで複雑に構成されており、構造としては防御的な性格の強い城館であったと考えられている。なお藩政時代に茂庭綱元が居住したのが、もっとも東に位置する蛭子館と呼ばれる曲輪であり、また石母田宗頼が居館を移した場所は現在の岩ヶ崎小学校の地である。


 初訪問時には館山公園周囲を見学しましたが、それももう数十年前…。そしてくりでんのおなごり乗車の際に麓から写真だけ撮影し、城跡には訪問していないので、実は山城部の遺構はほとんど憶えていないんです(^-^; 藩政時代の岩ヶ崎要害ってのも、実際は岩ヶ崎小学校の辺りってのが正解なんでしょうし…再訪しなきゃならんところがいっぱいだ!
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森館
森館跡標柱。
長網沢館跡標柱。
【所在地】 栗原市栗駒稲屋敷上森
【別称】 稲背城、稲瀬城
【築城年】  
【築城者】 森氏、安藤氏か
【城主変遷】 (森氏、安藤氏)…
【廃城年】  
【現状】 山林
 標柱には『森館軍記(森軍談記?)』に記載があり、安藤五郎窺家が居住したとある。しかし『仙台領古城書上』に城主は森周防守、また『安永風土記』には森因幡守糺則が長保四年(1002)まで居住したとあり、年代的な変遷も考えられるが一致していない。

 『森館軍記』によると、稲屋敷森館の森氏と
里谷森館の森氏の間で、ある美女を巡って激しい対立があったされ、両氏は同族であったと思われるが、その対立はついに合戦へと発展したという。


 東西約220m、南北約100mの独立丘陵が館跡で、高さ約30mの頂部に東西約80m、南北約30mの主郭部が見られる。主郭部東端には南北に走る空堀があり、その東側に一段下がって二の郭であろう平場が開ける。二つの平場の周囲には幅広い数段の段が同心円上に取り巻き、西側には空堀が見られるという。また一昔前には、丘陵の麓全周にわたって水堀の跡が見られたといわれるが、現在は全て水田になっている。往時は湿地帯に浮かんだ円郭式の平城、いわゆる水城の様相であったものと思われる。


 『森館軍記』…読んでないので合戦の結果が気になります(^-^; 標柱にも『軍記』に出て来るとしか書いてないし、むしろ安藤氏の名前だけで森氏の名前出て来ないし…。今更ながら栗駒町史読まなきゃかなー。

【参考文献】「仙台領内古城・館 第二巻」(宝文堂1973)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)

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