栗原市
旧栗原郡金成町(〜H17) |
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有壁館 |
有壁館跡標柱。 |
【所在地】 |
栗原市金成有壁館下
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【別称】 |
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【築城年】 |
室町時代か |
【築城者】 |
後藤美作守か |
【城主変遷】 |
大崎氏[後藤氏、菅原氏]−葛西氏[有壁氏](1571-90) |
【廃城年】 |
天正十八年(1590)か |
【現状】 |
山林 |
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初め大崎氏家臣後藤美作守が居住し、延文年間(1356-61)後藤氏が西方の丸森館へ移った後は菅原帯刀が居住したとされる。
元亀二年(1571)には葛西氏勢力下となり、家臣有壁氏が藤渡戸館より移住、有壁尾張守、同安芸守、同摂津守の3代が居住した。しかし主家葛西氏は天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置で改易となり、有壁氏一族も仕置軍との合戦で討死したとされる。その頃に有壁館も廃城となったものであろう。
なお大崎葛西一揆鎮圧の最終段階、桃生郡須江山での伊達氏による大崎葛西氏物頭衆の誅殺の際に、有壁遠江守なる人物の名が見える。遠江守はこの時、伊達氏家臣でこの謀殺の指揮に当たった屋代勘解由兵衛景頼と壮絶な一騎打ちの末討ち取られたという。
萩野小学校西側の高さ約40mの丘陵が館跡であり、山頂主郭部の規模は、標柱によれば『仙台領古城書上』の記述として20間×20間、「仙台領内古城・館」には同書の記述として東西九間、南北三十間、著者紫桃正隆氏の実測で東西40m、南北60mとある。登路は学校側の丘陵北東から東側の段を巡って山頂主郭部の南側へと通じている。
主郭部までほてほてと登りましたが、標柱に記載のある北側から北東への土塁は確認出来ず。「仙台領内古城・館」には一隅に神社が鎮座するともありましたが、特にそれらしいものも見当たらなかったなぁ…。山頂の平場は資料に記載のあるほど広く無かったので、おそらく南側の一角のみが開かれているものと思われます。だいぶ時間も押していたので、北側の林の中まで踏み込まなかったのが失敗ですね…orz
なお神社はありませんでしたが、主郭部西側に3本注連縄のかかった木が立っており、その辺りが微妙に壇になっていました。土塁と思えるほどの高さではありませんでしたけどね。 |
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金成館 |
金成館跡遠望。 |
【所在地】 |
栗原市金成館下
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【別称】 |
金田城 |
【築城年】 |
天喜四年(1056)か |
【築城者】 |
源頼義 |
【城主変遷】 |
源氏…藤原氏…大崎氏[金成氏]… |
【廃城年】 |
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【現状】 |
金田八幡神社、山林、宅地 |
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この地の歴史は古く、大同二年(807)坂上田村麻呂の奥州討伐の際に陣が置かれ、金神金山彦神社が祀られたとされる。その後天喜四年(1056)、前九年合戦において源頼義、義家父子が金田城を築き、安倍氏を神威によって誅すべく清原成隆、中原清房、菅原公成、藤原正弘ら神官に祈願させ、その鎮護として金田八幡神社を勧請したと伝えられる。合戦終了後、頼義は清原成隆を金田八幡神社の神官に遣したという。
その後奥州藤原氏が勢力を拡大すると金田寺が置かれ、藤原氏の厚い庇護のもと大いに繁栄したとされる。康治年間(1142-44)あるいは久寿年間(1154-56)成隆の4代孫義隆の代には、藤原秀衡の命によって炭焼藤太の子金売橘次信高、橘内、橘六兄弟がそれぞれ東館、南館、西館を構えて居住、京都で黄金を売りさばき富豪となったという。特に長兄橘次は、承安四年(1174)鞍馬寺で牛若丸と出会い、平泉の秀衡の許へと案内する途中に自身の東館へ迎えており、その際牛若は金田八幡へ詣でて平家追討を祈願したとされる。
以後は羽黒派修験道清浄院として明治時代まで神仏習合の霊地となり、その間に近藤重蔵、藤塚知明、菅江真澄、丈左房といった幕臣や文人墨客が多数訪れているという。また金売橘次の弟橘内が居住した南館には、天正十八年(1589)まで葛西氏家臣金成内膳が居住したともいわれる。
金成館全体の規模は東西200m、南北400mであり、それが年代によっては分割されて東館、西館、南館となり、それぞれ別人が居住したとされる。金田八幡神社南東に位置する東館は東西50m、南北150m、神社西側の西館は東西100m、南北180m、東館西側、西館南側のそれぞれ空堀を挟んだ位置に南館があり、東西100m、南北200mの規模を持つ。なお『封内風土記』では金成館を一つの城館として捉えており、それぞれ東館本丸、南館二の丸、西館三の丸とする記述がある。
館跡西麓に東館、金田八幡神社に関する解説板が建てられており、そこから宮司さん?宅の庭先を通って金田八幡神社へと続く砂利道があります。…が、おそらく私道と思われるので通行はお奨めしません。わたしは何も解らず軽自動車で登って行きましたが、傾斜も道幅も自動車向きではありません。むしろ後戻り出来ずに登って行った感じです(^-^;
八幡神社へは館跡北側から舗装道路がありますのでそちらからどうぞ。
でも館跡は私有地の様でしたので、詳しく見て廻るのは憚られました…。 |
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沢辺館 |
沢辺館跡遠望。 |
【所在地】 |
栗原市金成沢辺字館下
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【別称】 |
臥牛館、東館 |
【築城年】 |
正治年間(1199-1201)か |
【築城者】 |
二階堂(沢辺)常信か |
【城主変遷】 |
葛西氏[沢辺氏]…大崎氏…葛西氏[沢辺氏](1576-90) |
【廃城年】 |
天正十八年(1590)か |
【現状】 |
牛臥館公園、ほたる学園、山林 |
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構築年代、館主については諸説あり判然としない。文治五年(1189)奥州合戦の功で葛西清重が源頼朝より当地を与えられて居住したともされるが、その家臣二階堂刑部常信が正治年間(1199-1201)に築城、以後沢辺氏を称して居住したとされている。また館主として二階堂(沢辺)氏のほかに水戸五左衛門の名も伝わっており、その名は沢辺館の西側に隣接する西館の館主としても現れているが、その系譜は明らかでない。
沢辺館主となった二階堂常信は、沢辺氏を称して以後4代にわたり隣接する大崎氏に備えたが、その後大崎氏に攻略されたものか磐井郡霞館へと移住、さらに文安五年(1448)同郡蒲沢館へ所替となったという。しかし沢辺氏は弘治年間(1555-58)に沢辺館にあったともいわれておりはっきりしない。天正四年(1576)の大崎葛西合戦の結果、沢辺館は再び葛西氏の所領となって沢辺肥前守が館主に任ぜられ、修理亮、新左衛門と3代にわたり居住した。しかし同十八年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって主家葛西氏が改易となったため、新左衛門は伊達氏に召し出されたという。沢辺館はその頃に廃城になったものと思われ、館跡にはその後新左衛門の弟藤兵衛が帰農して代々居住したとされる。
三迫川を隔てた沢辺の街並みの南側に所在する、標高約51m、比高約35mの丘陵に築かれた山城で、全体の規模は東西250m、南北300mにわたる。館跡中央の最高所に東西約15m、南北約25mの本丸、その北東に細長い二の丸、北西に三の丸が置かれている。これらの曲輪の周囲には幅8〜15mほどの腰郭が巡っている。なお西側の台地は根小屋と称され、家臣の住居があったとされる。 |
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津久毛橋城 |
津久毛橋城跡解説板。 |
【所在地】 |
栗原市金成津久毛字平形松迫
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【別称】 |
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【築城年】 |
文治年間(1185-90)、興国三年(暦応五・1342) |
【築城者】 |
藤原泰衡、梶原景高、北畠顕信 |
【城主変遷】 |
(藤原氏…源氏[梶原氏])…北畠氏 |
【廃城年】 |
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【現状】 |
山林、耕作地 |
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文治五年(1189)奥州合戦の際に藤原泰衡が陣所とし、泰衡が平泉へ落ちた後に鎌倉御家人梶原平治(平二)景高が陣所としたとされる。
その後興国三年(暦応五・1342)、奥州の南朝勢力を指揮する北畠顕信が、三迫、津久毛橋、新山林、八幡、鳥谷の5箇所に館を構え、多賀国府奪還、関東進出をかけて北朝方へ決戦を挑んだ。石塔義房を中心とする北朝方は、津久毛橋と八幡の間の釜糖城を拠点とし、諸方の援軍を得て南朝方諸城館を攻略、その最後の拠点となった津久毛橋城を攻め落として辛くも勝利を収めたという。
その後は歌枕の“つくもばし”として知られるようになり、江戸時代には奥の細道」を旅した松尾芭蕉と門人の曾良も訪れている。
標高約40m、比高約20mの小丘陵突端部に所在する山城で、丘陵頂部の東西約100m、南北約50mの平場が主郭部となる。周囲に特に目立った遺構は無く、南朝方が最後の拠点とした城館としてはやや疑問が残る。主郭部西端には、源義経の身代わりとなって自殺し、義経北行伝説の立役者となった杉目太郎行信の墓が建てられており、また付近には壇の原、乱れ橋といった古戦場が伝えられている。 |
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【参考文献】「仙台領内古城・館 第二巻」(宝文堂1973)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981) |
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