伊治城跡解説板。 |
【所在地】 |
栗原市築館字城生野大堀、唐崎要害、地蔵堂
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
神護景雲元年(767) |
【築城者】 |
田中朝臣多太麻呂 |
【城主変遷】 |
古代律令政府… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
耕作地、宅地 |
|
多賀城以北の支配力強化、勢力伸張のため古代律令政府により設置された城柵で、神護景雲元年(767)鎮守府将軍田中朝臣多太麻呂、在地豪族道嶋宿禰三山らによって造営されたという。『続日本紀』『日本後記』には延暦十五年(796)までその名が現れており、その後は一切文献上から姿を消している。伊治城が設置されると政府は他地域より希望者を募り、同三年(769)には2500人が移住したという。この様な政府の政策に対して当然蝦夷の反発は強く、ついに宝亀十一年(780)上治郡大領伊治公砦麻呂が叛乱、宝亀の乱が起こる。
伊治公砦麻呂は伊治城造営の際に政府に服属した栗原地方出身の蝦夷であり、造営に協力した功績により伊治公の姓を与えられたという。その後上治郡の大領となり、出羽国管轄であった志波村の蝦夷征討などでで功を挙げ、宝亀九年(778)には政府より外従五位下に叙せられていた。陸奥国按察使紀広純は初め俘囚出身の砦麻呂を嫌ったが、後に大きな信頼を寄せる様になったとされる。しかし同じ俘囚出身である牡鹿郡の大領道嶋大盾は、砦麻呂を見下して俘囚と侮っていたため、これを砦麻呂は深く恨んでいたという。
砦麻呂は、宝亀十一年(780)広純が覚べつ城(べつ=敝の下に魚)造営のため伊治城を訪れた際に兵を動かし、まず道嶋大盾を殺害した後、広純を大軍で囲んで殺害した。同行していた陸奥国介大伴真綱のみ囲みを破って多賀城へと逃れたが、掾の石川浄足とともに城を捨ててさらに逃走したため、蝦夷勢は多賀城を襲って放火、略奪を行った。なお砦麻呂の動きは伊治城内で広純、大盾を殺害した以降、乱終息後の生死すら不明であり、多賀城を襲った蝦夷勢を砦麻呂が指揮していたものかは不明である。そして乱自体もどの様な経過を辿って終息したものか記されていないため不明である。ただ、乱発生後直ちに征東大使に任ぜられた藤原継縄は京都より進発しようとしなかったため罷免され、その後任に任ぜられた藤原小黒麻呂の働きによって翌年には鎮圧、終息に向かったものと思われる。
この様に、宝亀の乱自体は砦麻呂の私怨が原因であったと考えられているが、実際は律令政府と蝦夷との軋轢によって引き起こされたものであった。その後も政府と蝦夷との間には対立が続き、この叛乱が以後長期にわたって続いた抗争の発端となったのである。
なお伊治公砦麻呂は読みが不明であったため、永く音読みで“イジノキミアザマロ”と読まれていた。また“上治郡”についても永く不明の地であったが、“此治郡”と記された木簡が出土したことによって、伊と此が同音異字で“コレ”と通じることから“此治郡”の誤記であるとする説が有力となっている。従って現在は“コレハリ”もしくは“コレハル”と読むものと考えられており、城柵名も“コレハリ(コレハル)”城とするのが妥当であると思われるが、遺跡登録名に倣い“イジ”城のままとする。
築館字城生野、4号国道を含む一帯が伊治城跡と比定されており、全体的な規模は東西700m、南北650m、一角に解説板が建てられています。遺構として僅かに土塁、空堀状の大溝が残るのみで、大部分は耕作地、宅地となっています。発掘調査の結果、8世紀末頃の竪穴住居跡、墨書土器、瓦などが発見されている様ですが、政庁的な官衙ブロックなどは見つかっていないため、全体像はまだ未知の部分が多い様です。 |