川崎城(前川城)跡標柱。 |
【所在地】 |
川崎町前川字館山
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【別称】 |
前川城、臥牛城、川崎要害 |
【築城年】 |
慶長十五年(1610) |
【築城者】 |
砂金実常 |
【城主変遷】 |
伊達氏[砂金氏、(宮床)伊達氏、(川崎)伊達氏](1610-1869) |
【廃城年】 |
明治二年(1869)か |
【現状】 |
川崎小学校 |
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藩政時代の仙台藩伊達氏の要害の一。
慶長十三年(1608)から十五年(1610)にかけて、仙台藩主伊達氏家臣砂金右兵衛実常が築城したものとされる。
砂金氏は古くから中内城を拠点に川崎地方に勢力を有していた豪族で、戦国時代頃に伊達氏の麾下に加わった。砂金実常は大坂夏の陣に従軍した後、加増の上伊達氏一族の家格に列せられ、以後城に準ずる要害の格を与えられた川崎城、そして城下町の整備を行った。砂金氏は実常の後、佐渡守隆常(中島監物真成五男)、四郎兵衛勝常と続くが、元禄十五年(1702)又次郎重常(涌谷伊達宗元三男)が病没すると無嗣断絶となった。なおその後再興されているが、家格は太刀上一番坐と低いものであった。その後川崎要害には黒川郡宮床所より伊達村興が入封するも、僅か20年後の享保七年(1722)再び宮床へ所替となっている。
伊達村興の宮床再封を受け、同年川崎要害は伊達村詮が2千石を以て拝領した。この村詮は仙台藩3代藩主伊達綱宗の孫であり、元禄八年(1695)仙台藩4代藩主伊達綱村より中津山藩3万石を分知されて大名へ列した伊達美作守村和の子である。
父村和は水沢伊達(留守)氏に入嗣し、当初村任を称して5代当主を継承していたが、兄綱村より所領の分与を受けて中津山藩主となった際に村和と改め、水沢を離れて江戸へ出府した。しかし元禄十二年(1699)江戸において刃傷事件を起こして謹慎となり、中津山藩は僅か4年で改易となってしまう。その後村和は兄綱村の預かりとなり、享保四年(1719)に罪を赦されるまでの20年に亘って逼塞処分を受け、処分が解かれた3年後に死去した。なお村和は中津山藩主在任中、その居所であった中津山陣屋へは一度も入部することはなかったという。
享保五年(1720)に村和が死去すると、同年その長男村詮は改めて伊達氏一門の家格に列して川崎要害を拝領、翌年には川崎に入部した。その後子孫は川崎伊達氏として7代140年間にわたって川崎要害にあり、仙台藩領西部の要衝を守備した。
比高18mの丘陵上、東西に本丸、二の丸がほぼ同じ高さで並んでおり、全体で東西370m、南北300mの規模を持つ。西側の本丸、東側の二の丸には土塁が巡らされており、現在本丸は公園、二の丸は川崎小学校校地となっている。この二つの平場の周囲には腰曲輪、段などがほとんど見られず、戦国時代に構築されたほかの要害屋敷とは異なる単純な構造となっている。
実は…川崎町ってほとんど通らないんですよねー。20代の頃は仕事の訪問先があり何度か訪れていたんですが、その時もっと詳しく見ておけば良かった…なんて思っています。正直なところほとんど覚えていないので、ほかの城館と併せて再訪しなきゃです。 |