石巻市
旧桃生郡桃生町(〜H17) |
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安倍館 |
安倍館跡解説板及び遠望。 |
【所在地】 |
石巻市桃生町太田
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【別称】 |
館山館 |
【築城年】 |
平安時代か |
【築城者】 |
安倍氏か |
【城主変遷】 |
(安倍氏) |
【廃城年】 |
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【現状】 |
山林、耕作地 |
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永承六年(1051)から始まった前九年合戦の際、安倍貞任が籠城したと伝承されている。
日高見神社北方、高さ約80mほどの丘陵に所在し、東西約200m、南北約130mほどの規模を持つ。頂部の直径約100mほどの円形の平場が主郭であり、その西側の一段下がった平場が二郭と推定されている。
正直なところを言えば…良く憶えてない(-_-;
仕事中に立ち寄ったので、だいぶ駆け足で見たからだと思うけど。解説板の画像を見ても良く思い出せないので、近隣城館跡を含めて再訪しなきゃですなあ。
しかし…伝説には何らかの根拠があると考えるわたしですが、それにしても宮城県北部は安倍貞任伝説多過ぎ!東国の人間が、西国より攻め寄せる権力に抗った、という部分が貞任を伝説化させてるんでしょうね。 |
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太田館 |
太田館跡標柱。 |
【所在地】 |
石巻市桃生町太田
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【別称】 |
館山城、館ヶ崎館 |
【築城年】 |
平安時代か |
【築城者】 |
安倍氏、源氏か |
【城主変遷】 |
(安倍氏、源氏) |
【廃城年】 |
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【現状】 |
耕作地 |
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『仙台領古城書上』に城主安倍貞任が前九年合戦の際に籠城した、また『安永風土記』には八幡太郎源義家が安倍貞任討伐の際に陣所としたとある。何れも永承六年(1051)より始まった前九年合戦の陣所と伝えるも、伝承の域を出ないだろう。
東西約200m、高さ約10mほどの小丘陵に所在し、東西2つの平場に居館が置かれたと推定されている。前述の『古城書上』には東西四十九間、南北十九間とあり、『風土記』には西側の本丸が東西五十間、南北五十間、東側の二の丸が東西四十間、南北五十間とあるという。
往時は湿地帯に浮かんだ島状の城館であったとみられるが、要害の地であったとは思われない、と紫桃正隆氏は「仙台領内古城・館」で著述している。
例によって仕事中の訪問、憶えていない城館跡の一つです。しかしこちらは安倍貞任伝説に加えて八幡太郎伝説まで。権威に対して抗っているのか迎合しているのか判らん…。 |
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神取山城 |
鹿島神社入口の神取山城跡解説板。 |
【所在地】 |
石巻市桃生町神取字山畑
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【別称】 |
楫取山城 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
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【城主変遷】 |
葛西氏[岡野氏、鈴木氏]… |
【廃城年】 |
天正十八年(1590)か |
【現状】 |
林昌院、鹿島神社、山林 |
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葛西氏家臣岡野伊勢長満、または鈴木山城守の居城であったとされる。
永正年間(1504-20)大森城主山内首藤貞道が石巻城主葛西宗清に対して兵を挙げた際、城主は首藤氏に与して同陣営の西方の拠点として重視されたという。この永正合戦で破れた後の詳細は明らかでないが、戦後葛西氏の所領となり岡野、鈴木氏が置かれたものであろうか。
天正十八年(1590)葛西氏は小田原城征伐不参を理由に改易となるが、その処分を不服とする家中諸士は大原飛騨守胤重を総大将に1700騎でこの城に籠もり、奥州仕置軍相手に最後の抵抗を行ったとされる。また江戸時代には、寛永御前試合の剣士伊井某がこの城の南東に屋敷を構えたという。
北上川、江合川の合流点東側に位置する標高約40mの台地、東西約300m、南北約100mの山全体が城跡と伝わる。水道事業所へと登る道路の北東が本丸跡、林昌院周辺が二の丸跡と推定されている。 |
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沢山城 |
寺崎八幡神社鳥居(の脇に沢山城跡標柱があるよ)。 |
【所在地】 |
石巻市桃生町寺崎八幡山
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【別称】 |
寺崎城 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
西条氏か |
【城主変遷】 |
奥州藤原氏[西条氏]…葛西氏[西条氏、寺崎氏](1189-1590) |
【廃城年】 |
天正十八年(1590) |
【現状】 |
寺崎八幡神社、宅地、耕作地、山林 |
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石巻城主葛西氏家臣西条氏、次いで寺崎氏の居城であったとされる。
西条氏は奥州藤原氏家臣であったとされ、文治五年(1189)源頼朝による奥州合戦においては東浜街道の拠点である当地の守備に当たった。しかし藤原氏は滅亡、西条氏は討伐軍に降って所領を安堵され、頼朝より奥州総奉行に任ぜられた葛西氏の麾下となったとみられる。
時代は下って永正年間(1504-21)、北上川流域に勢力を拡大した大森城主山内首藤氏が葛西氏と対立、戦端が開かれると、時の城主西条栄加入道は中津山城主中津山長四郎らと共に首藤氏に与した。しかし栄加入道がいち早く葛西氏方に転身したことにより葛西氏が優勢となり、この永正合戦は葛西氏が勝利、以後葛西氏に降った首藤氏は衰退したとされる。だがこの永正合戦の後、沢山城(寺崎城)主西条氏の名は記録から姿を消しており、この伝承が確かなものであるかは不明である。
西条氏が姿を消した後、当地を所領したのは寺崎次郎左衛門清義であった。寺崎氏は葛西氏一族であり、下総国印旛郡寺崎より当地へと移ったとされる。しかし天文年間(1532-55)、清義7代孫常清の代に一族の主だった者は磐井郡峠城へと移住した。これは主家葛西氏が登米郡寺池城へと居城を移したことに伴う、北方防衛の一環と想定されている。但し傍系の一族が当地に残留したもlのと思われ、天正十八年(1590)の大崎葛西一揆の際、城主寺崎伊予守(隼人)らが奮戦したと伝わっている。
寺崎氏滅亡後は廃城となった。
峯山と称される丘陵北端、現在八幡神社が祀られる約80m四方の平場が主郭とみられ、その平場を中心とした東西約700m、南北約350mに及ぶ城館と考えられている。なお『仙台領古城書上』には、山城として東西三十四間、南北三十八間と記される。なお、四方には城門跡とも推定される箇所が確認出来るという。
実は周辺の城館跡と併せて標柱ハンティングをして来ただけなんですよね…仕事の途中に立ち寄っただけでしたので(-_-;
故に東西南北四方の門跡と思われる箇所なんて確認出来る筈もなし。場所だけ確認して次回訪問した際には…ってのはなかなか実現しないもんですねー。付近ではイースタンリーグの開催もないし←そこか? |
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中津山城 |
中津山城跡標柱。 |
【所在地】 |
石巻市桃生町城内舘下
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【別称】 |
中津山陣屋、中津山所、黒澤館 |
【築城年】 |
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【築城者】 |
中津山氏か |
【城主変遷】 |
葛西氏[中津山氏]…木村氏-伊達氏[大立目氏、瀬上氏、長沼氏](1591-1695)-中津山伊達氏(1代・1695-99)-伊達氏[布施氏、黒澤氏](1699-1868) |
【廃城年】 |
明治二年(1869)か |
【現状】 |
宅地 |
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藩政時代の仙台藩伊達氏所の一であり、仙台藩の内分支藩として中津山藩が立藩された際はその藩庁となった。
築城時期は不明だが、永正年間(1504-21)の城主は中津山長四郎であったという。中津山氏は石巻城主葛西氏家臣であったが、長四郎は大森城主山内首藤氏に与して主家に叛乱、一時はその猛攻に耐えをこれを撃退した。しかし、同志である北方の沢山城主西条栄加入道が葛西氏に内通し形勢が逆転、遂に落城し滅亡したと伝わっている。
葛西氏が天正十八年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置によって滅亡した後、当地は木村吉清の所領となり、さらに木村氏の失脚後は伊達政宗に与えられた。江戸時代初頭には伊達氏重臣大立目氏、瀬上氏、長沼氏らが相次いで拝領し、その支配拠点として改修されたと考えられる。
元禄八年(1695)仙台藩4代藩主伊達綱村は、弟であり水沢伊達氏5代を相続していた伊達村任に3万石を分知し、内分支藩である中津山藩を立藩させた。村任は諱を村和と改めて美作守に叙任され、翌年には江戸城下の藩邸も落成、中津山を藩庁とすることも認められ、藩としての体裁を整えていった。なお中津山藩成立時に村和には男子がなかったため、涌谷伊達氏4代伊達村元の次子村景(村和の甥に当たる)を養子に迎えて水沢伊達氏を相続させている。
しかし藩成立から僅か4年後の元禄十二年(1699)、江戸城登城中の行列を横切った旗本岡孝常に対し、供回りの者が刃傷に及び手傷を負わせたため、村和は謹慎の上改易となってしまう。分知された中津山藩領は仙台藩へと戻され、中津山藩は僅か1代4年で廃藩となった。なお村和は藩主在任中、一度も中津山へは入部することなく改易になったという。
その後村和は20年後に赦免され、その3年後の享保七年(1722)に死去したが、同年長子村詮が一門に列して川崎要害を拝領、以降川崎伊達氏として明治維新まで存続している。
再び仙台藩領となった中津山は、元禄十三年(1700)布施定安より2代が拝領した後、享保八年(1723)黒澤俊栄が3300石を以って拝領、以後明治維新まで当地を所領した。なお黒澤氏は仙台藩着坐の家格であり、藩内において最新の洋式教練、装備を持っていたとされ、慶応四年(1868)に勃発した戊辰戦争の際には、俊栄の7代孫俊親が越後国長岡藩救援のため大隊長として出陣している。
峯山と称される島状に浮かんだ丘陵最西端、標高約10mほどの小丘陵上に所在し、西側の東西約300m、南北約200mほどが中世の中津山城、道路を挟んで東側に隣接する東西約150mほどの範囲が近世の中津山所と考えられている。丘陵北麓には馬場と呼ばれる場所、そして西端に所在する白鳥神社向かいに枡形状の遺構が見られるため、丘陵全体が近世まで使用されていたものとも考えられる。往時は南北両面を低湿地に囲まれた固城であったことが偲ばれる。
宮城県出張中に立ち寄ったのでじっくりと見てはいませんが、現在は主に宅地となっており目立った遺構は見られませんでした。画像の標柱があったので場所は特定出来たんですが…この標柱、民家敷地内に建てられてるんですよね(^-^;
お声を掛けたんですがご不在の様子だったので、標柱だけ撮影して退散した記憶があります。 |
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【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981) |
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