石巻市
旧桃生郡河北町(〜H17) - 旧二股村(S30)
トップさくらとおしろ宮城県石巻市大森城
大森城
大森城標柱、解説板。
大森城標柱、解説板。
【所在地】 石巻市大森字清水
【別称】 臥牛城、牛ヶ館
【築城年】 南北朝時代か
【築城者】 首藤氏
【城主変遷】 首藤氏…葛西氏[男沢氏](1515-1590か)−伊達氏[後藤氏か]…
【廃城年】  
【現状】 山林、耕作地
 文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げ、源頼朝より桃生郡二十四郷を拝領した山内首藤氏の居城。首藤氏は南北朝時代からから室町時代中期(1350-1500)頃に桃生郡永井城より移り、大森城を築いて居城したという。

 北上川下流域に勢力を拡大した首藤氏であったが、永正年間(1504-20)初頭貞道、知貞父子が石巻城主葛西氏13代宗清に反抗し合戦となった。首藤氏一族は堅城大森城に籠もって葛西勢を迎え撃ち、4年にわたって戦いを続けたが、ついに永正十二年(1515)兵糧攻めによって落城、滅亡した。なお当時は七尾城へと居城を移しており、両城を中心に合戦が行われたともされる。

 首藤氏滅亡後は葛西氏家臣男沢筑後が居城したとされる。また天正十八年(1590)に葛西氏が改易となった後は伊達政宗の所領となり、重臣後藤孫兵衛信康に与えられたとされる。しかし信康が大森城に居城したかどうかは不明である。


 大森集落背後の館山に築かれた、高さ約55m、東西約600m、南北約300mに及ぶ巨大な山城であった。館山中央の最高所に本丸が置かれ、西に二の丸、東に三の丸、東の丸、北に北の丸を配し、南は断崖となって大森集落へと落ちている。往時は北上川が館山の麓まで流入していたと考えられており、その流れを防衛の重点として置いた要害であった。
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北境館
北境館跡標柱。
北境館跡標柱。
【所在地】 石巻市北境
【別称】 出館
【築城年】  
【築城者】 首藤氏か
【城主変遷】 首藤氏…
【廃城年】  
【現状】 山林
 築城年代、築城者、館主何れも不明だが、永正年間(1504-20)山内首藤氏と葛西氏が争った永正合戦では、七尾城大森城に拠る首藤氏の南端の防衛拠点となった。葛西氏の居城石巻城から大森城へ至るにはこの館の下を通じる街道を利用する必要があるが、かなりの要害であったとみられ、消耗を避けるべく葛西勢は海上を廻って本吉郡に上陸し、大森城を囲んだという。

 江戸時代には賤ヶ岳七本槍として有名な脇坂安治の弟、外記安景が慶長十八年(1613)より伊達氏に出仕し、この地に居住した。安景は元和元年(1615)伊達政宗に従って大坂夏の陣に出陣、騎馬武者2名を討ち取りながらも自身も討死し、その遺骸は北境館へと運ばれ埋葬された。


 高さ約30m、東西約150m、南北約80mの規模を持つ中世山城で、東西に二つの郭を配した輪郭式の城館であった。最頂部となる西側が本丸、一段下がった東側の平場が二の丸となり、二の丸東側には明瞭な土壇が残る。本丸南東端に脇坂氏の墓碑が残り、二の丸北側斜面には江戸時代の古墓が散乱している。


 学生時代に何度も通った33号県道沿に標柱が建てられており、この館の存在を知って“こういうのもお城って言うんだな…”と思い城館に興味を持った…のかも知れない。それまでは一般的な天守=お城のイメージでしたが、石巻市稲井地区などにも標柱が数多く立てられており、運転代行のバイト中に沢山見つけましたからねー。
 この標柱の脇に小径らしきものが見られますが、標柱ハンティングで満足していた学生の頃は登ろうなんて思わず、その後は出張時で時間がなかったり雨天だったりでスルー続き。脇坂安景さんののお墓にも詣でたいんですがね。
 なお丘陵の対角の位置に北境古碑群の標柱が建ち、その脇から法華堂へと上る階段があるのですが、学生の頃にそこにはおばけが出る〜、なんて話を聞いた記憶があります。おばけコワイので再訪する日は天気の良い日にしたいと思います(笑)

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)

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