石巻市
旧桃生郡河北町(〜H17) - 旧飯野川町(S30) |
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七尾城 |
七尾城跡標柱、解説板。 |
【所在地】 |
石巻市中野字七尾
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【別称】 |
七王館 |
【築城年】 |
建久三年(1192)、戦国時代 |
【築城者】 |
(葛西清重)、首藤貞通ら |
【城主変遷】 |
(葛西氏)…首藤氏…葛西氏 |
【廃城年】 |
天正十八年(1589) |
【現状】 |
山林 |
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文治五年(1189)奥州合戦において功を挙げ、源頼朝より奥州総奉行に任ぜられた葛西壱岐守清重が、牡鹿郡日和山に石巻城を築く以前に居城したとする説があるが確証はない。しかし七尾城の東方に竜源寺跡と称する場所があり、後年葛西氏が石巻城より登米郡寺池城へと居城を移すと同時に竜源寺もまた寺池へと移っており、葛西氏の菩提寺の移動から推定して全くの伝承ともいえない。
戦国時代になると、桃生郡永井城にあった山内首藤頼通が北上川下流域へ進出、大森城へと居城を移し、更にその後頼通の子(孫とも)貞通の頃に七尾城へと移動したと考えられている。首藤氏は秀郷流藤原氏の流れを汲み、首藤経俊が葛西氏同様奥州合戦の功で桃生半郡の地頭職を賜り、その末弟某が建久三年(1192)桃生郡下向して永井城に居城したのが始まりという。
首藤氏が大森城より七尾城へと居城を移した年代は明らかでないが、その頃は北上川流路の水上権、砂鉄資源を独占して全盛期を迎えていた頃であった。一方所領を接する葛西氏は、伊達氏より迎えた宗清の家督相続を巡り反対する一族、家臣らへの対応に苦慮していた。首藤貞通は葛西家中の混乱を衝いてその打倒を図り、葛西氏重臣で反主流派であった末永氏を支援する。葛西氏は末永氏の反抗的態度はその背後にある貞通の存在が原因と判断し、次第に両氏の確執は大きくなって行った。
そして貞通は七尾城、大森城を改修し、周辺諸豪族の支援を得て、遂に永正八年(1511)葛西氏に対して兵を挙げた。対する葛西宗清は諸軍を率いて出陣、海上を移動して本吉郡へと渡り、北上川流域の諸城館を抜いて七尾城、大森城へと攻め寄せた。しかしその堅固な構え、そして地勢を熟知した首藤勢によって翻弄され合戦は長期化した。そして永正十二年(1515)、数に勝る葛西勢相手に両城に籠城、抵抗を続けた首藤勢も、長い籠城で兵糧も尽きて餓死寸前となり、もはや抗戦は不可能と判断した貞通によって和議が申し込まれた。しかしこの申し出は受け容れられず、大森城、次いで七尾城も攻め落とされ、貞通は桃生郡内十郷を割譲して葛西氏の軍門に降った。その後の貞通、知通父子の消息ははっきりとせず、共に宮城郡白石城に落ちたとも、行方郡小高城主相馬氏の庇護を受けで賓客として遇されたともいわれる。
首藤氏没落後、北上川下流域は葛西氏の手に帰し、七尾城には一族である葛西六郎守重が配されたという。しかし天正十八年(1589)豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏は改易となり滅亡、同時にこの城も廃城となった。
現在城跡南側を流れる北上川だが、往時は北面に広がる中島耕土もその流路となっていたという。つまり七尾城は北上川に浮かぶ島の状態であり、いわゆる水城であったという。全体の規模は東西約500m、南北約420mに及び、中央の鞍部を境に東郭、西郭に分かれている。本丸は最高所となる標高73mの東郭頂部であり、東西約50m、南北約100mの平場とその周囲に腰郭、段築が残る。東郭と西郭の間には谷が入り込み、門跡、通路が認められ、西郭には二の丸、三の丸が置かれていた。なお七尾城の名称は、この丘陵には七つの峰があるため七王山と称され、峰毎に七つの郭を配したためであるという。 |
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【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3
山形・宮城・福島」(新人物往来社1981) |
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