七ヶ浜町
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>宮城郡>七ヶ浜町>大木城
大木城 |
大木城跡…だと思って撮影した画像(^-^; 城域ではあるかも? |
【所在地】 |
七ヶ浜町東宮浜
|
【別称】 |
台木城 |
【築城年】 |
|
【築城者】 |
佐藤氏か |
【城主変遷】 |
佐藤氏… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
国指定史跡大木囲貝塚、市街地 |
|
築城年代、築城者ともに不明、城主として佐藤某の名が伝わる。所在地的に岩切城主留守氏に通じる一族であろうか。
東宮浜字要害の西、国指定史跡大木囲貝塚の所在する標高38mの丘陵が城跡とされ、“要害”の地名はこの城に由来するものとも考えられている。往古は銀杏の巨木があり、港に出入りする船の目印として重用され、これを切ると悪疫が流行するといった伝説があったとされる。しかし現在はその巨木はもちろん、城郭遺構も全て消失している。
…実は写真撮影した場所は間違っていることに気付いていますが、再訪を期してそのまま掲載(^-^;
要害浦西側の丘陵地だと思いずんずん進んで行くも、何も遺構っぽいモノはなし(一応城域に含まれている様ないない様な感じですが)。まあ、再訪しても貝塚の石碑を撮影するのみで終わっちゃいそうなんですけどね。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>宮城郡>七ヶ浜町>花淵館
花淵館 |
花淵城跡…だと思って撮影した画像(^-^; |
【所在地】 |
七ヶ浜町花渕浜寺坂
|
【別称】 |
花節館 |
【築城年】 |
|
【築城者】 |
花渕氏か |
【城主変遷】 |
留守氏[花渕氏]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
山林、耕作地 |
|
年代は不明、花渕紀伊守が館主であったとされる。北西に所在する吉田館と対をなす城館で、往時は三方を海に囲まれた要害であった。
館主花渕氏は岩切城主留守氏着座の身分で、鼻節神社を崇敬し、海産物生産に意を用いた領主であったという。永禄十年(1567)以降の留守氏継嗣問題では、伊達氏より入嗣して18代当主となった留守政景の擁立派であったとみられる。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置で主家留守氏が所領没収となると、それに伴い花淵城も廃城となったと考えられている。
七ヶ浜町東端、海に臨む標高約40mの丘陵上に所在する。丘陵北端の断崖上に主郭が置かれ、南側は東西に走る深さ約5m、幅約10mの大きな空堀で切られている。周囲の水田地は往時は入江であったといわれており、東西北三面を海に囲まれ、南面に巨大な堀を構えた堅城であったと想像される。主郭部は東西約50m、南北約70mの規模を持ち、北西に大手口と見られる登路、さらに東西約30m、南北約80mの細長い北曲輪が続いている。
と、まあ偉そうに書いてみましたが、訪問した箇所は間違っていたみたい(^-^:
字舘下に所在する同性寺、和光幼稚園南東の丘陵地だと思い、同性寺墓地からずんずん入ってみましたが、「仙台領内古城・館」に記載されている様子とは全く違いましたからねぇ…。仙台市出身ながらなかなか馴染みの薄い七ヶ浜町ですが、かなり悔しいので必ず再訪し、主郭部の畑地を拝みたいと思います。 |
|
トップ>さくらとおしろ>宮城県>宮城郡>七ヶ浜町>吉田館
吉田館 |
吉田神社より望む吉田館跡遠望。 |
【所在地】 |
七ヶ浜町吉田浜寺山
|
【別称】 |
|
【築城年】 |
|
【築城者】 |
吉田氏か |
【城主変遷】 |
留守氏[花淵氏(吉田氏)]… |
【廃城年】 |
|
【現状】 |
金剛寺、墓地 |
|
年代は不明、花淵館主花渕紀伊守家臣吉田伊郷が館主であったと伝えられる。南東に所在する花淵館と対をなす、海に臨んだ砦の一であった。
金剛寺の裏、現在墓地として利用される標高約25mの台地が館跡とされる。西側に鞍部を隔てて吉田神社が鎮座するほぼ同じ高さの高台があるが、その台地は含まない鞍部から東側が城郭であるという。主郭部は墓地となっている東西約80m、南北約40mの平場で、周囲に目立った遺構は見られない。58号県道が台地の北から東側へ沿って走っているが、その上の断崖に数段の段築が見られるのみである。
うーん、墓地です。平場の周囲に土塁の痕跡でも見られないものかとぐるっと歩いてみましたが、特に何も見当たらず。強いて挙げれば、平場南東部が若干高くなっており、物見や狼煙台として使用されたもんかな…なんて思いましたが、ちょっとそこまで侵入が出来ませんでしたので勝手な想像です。 |
|
|
【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981) |
ご意見、ご感想は下記まで。
sakushiro.3946@gmail.com |