七ヶ宿町
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湯原館
湯原館跡解説板。
湯原館跡解説板。
【所在地】 七ヶ宿町町裏
【別称】 湯ノ原城、古館
【築城年】 室町、戦国時代か
【築城者】 横尾氏か
【城主変遷】 横尾氏…伊達氏[(横尾氏)、石川氏]…
【廃城年】  
【現状】 旧湯原小学校
 築城年代は不明だが、戦国時代には横尾氏が居住していたとされ、横尾氏については相反する二通りの説が伝わっている。まず一説は、湯原は往古は米沢領主の支配下となっていたが、米沢より城代が派遣されることはなく、当地の者の預かりとなっていた。その後伊達氏の所領となり、湯原には寛永年間(1624-44)頃まで横尾兵衛が居住、同十九年(1642)角田要害主石川大和守(宗敬か)の知行地となり、米沢藩境の押さえとして石川氏重臣が交替で常勤したという。また一説は、横尾伊勢守(横尾兵衛曾孫という)の居城だったが、伊達氏所領となった際に伊勢守は逃亡、その後石川氏の所領となったとするものである。つまり横尾氏は伊達家中の者に非ず、この地に拠った土豪であるとしている。

 何れにしても横尾氏が拠った時期は、伊達氏が置賜郡を召上、刈田郡を失っていた時期であろうから、天正十九年(1591)から慶長五年(1600)くらいの間であったものか。その時期は置賜、刈田両郡は蒲生氏、次いで上杉氏の所領となっているため、何れかの家臣であったとも考えられる。なお刈田郡小村崎に所在する兵糧館(兵衛館)にも、横尾兵衛が居住したという伝承がある。


 旧湯原小学校北側、南面に突き出した比高約40mの舌状丘陵地に構築されており、その山腹削平地一帯が城郭であった。全体で東西150m、南北200mの規模を持ち、小学校真後ろに上館と称された東西、南北80mほどの本丸、その東側に空堀を隔てて東西30m、南北80mの東館と称された東丸の平場がある。これが中世湯原館の主要部分と考えられ、本丸、東丸の北辺には高さ5m、幅10mの土塁、それに外接する深い空堀が走り、奥山と完全に分断されている。また西側は断崖となり、小学校側となる南側は東西に走る空堀を配して断崖へと続き、東側には数段の段築が巡ってその下に水堀が配されている。

 小学校校地は二の丸と考えられており、東西150m,南北80mの規模であるが、造成によってだいぶ改変されており面影は残っていない。石川氏の知行地となった頃には、本丸、東丸は廃され、二の丸に役所が置かれて街道を守備していたものと推定されている。


 七ヶ宿街道は米沢経由で実家や仙台方面に行く際にしょっちゅう使いますが、いつも何故かタイミングが悪いんですよね…、深夜だったり昼間でも雪に阻まれていたり試合開始時間に間に合わなくなりそうだったり。旧湯原小学校跡地に解説板が建てられており、また赤湯温泉のホテル瀧波に表門が現存しています。
 紫桃正隆氏絶賛の城館ですので、今度じっくりと訪問したいところです。

【参考文献】「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)

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