宮城跡標柱及び本丸残存部遠望。 |
【所在地】 |
蔵王町宮台
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【別称】 |
古館、二条城 |
【築城年】 |
天文年間(1532-55)か |
【築城者】 |
宮内宗忠(遠藤重清)か |
【城主変遷】 |
伊達氏[宮内氏] |
【廃城年】 |
天正十九年(1591)か |
【現状】 |
耕作地、果樹園、宅地 |
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天文二十一年(1552)遠藤修理亮重清が宮内中務宗忠と改めて内親館より移住したという。その後宗忠の次子因幡守常清(宗清)が天正十九年(1591)加美郡色麻へ転ずるまで居城とし、その後は廃城になったという。しかし内親館は延徳二年(1490)より宮内氏が館主であったといわれるので、宮内氏が遠藤姓であったものか、それとも記録に混乱があるものかは不明である。なおその後宮内氏は享保三年(1718年)に宇多郡駒ヶ嶺所を拝領、明治維新まで伊達相馬国境の守備に当たっている。
また元亀元年(1570)伊達輝宗に対して宿老中野常陸介宗時、牧野弾正忠久仲父子が叛したいわゆる元亀の変の際、小松城より相馬領へ奔った宗時、久仲の軍勢を、亘理兵庫守元宗、美濃守重宗父子が宮城に拠って迎え撃ったという。
内親館と白石川を隔てて相対しており、それぞれが呼応して奥州街道を守備したものと考えられている。
採土のため館跡東部は全体の3分の1が失われ、もっとも主要な平場である本丸が失われている。また残った平坦地も果樹園として利用されており、造成によりだいぶ地形が改変されている可能性がある。また北端は東北自動車道建設によって一部破壊されており、かなり遺構の残存状態は悪い。しかし周囲を巡っていた幅5mの堀が確認出来、それによって全体の規模が推測可能となっている。
前述の通り本丸は失われているが、往時は標高約60m、比高約30m以上あったとされる。また本丸から西方に斜面を下った場所に、南北約90mの土塁が残り、その外側に空堀があったと推定されている。さらにその西側には二の丸に相当した平場があり、西端には長さ80m、幅5.5m、高さ1.8mの土塁が残る。
標柱へ至る道路は若干分かり辛かったため、訪問時はかなり時間がかかってしまい周囲を大して確認していません(汗)
宮小学校のプール脇を通り、Y字路を左に進んだ民家の脇に、今にも朽ち果てそうな標柱が建ってます。是非とも再訪してじっくり歩いてみたいと思います。4号国道線から近いしね〜。
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