白石市
旧刈田郡大平村(〜S29)
トップさくらとおしろ宮城県白石市太平館
太平館
太平館跡遠望(Googleストリートビューより加工)。
太平館跡遠望(Googleストリートビューより加工)。
【所在地】 白石市大平中目太平山
【別称】 泰衡館、中目城
【築城年】 平安時代か
【築城者】 (藤原泰衡)、中目(中野目)氏か
【城主変遷】 (奥州藤原氏)…結城氏…伊達氏[中目(中野目)氏]…
【廃城年】  
【現状】 大平神社、耕作地、山林
 築城年代、築城者は不明ながら、館主として中目(中野目)日向守長政が居住していたという。長政以前の中目氏の家系は不明だが、代々刈田郡中ノ目に居住して、地名を以て中目を称したとされる。長政が弘治四年(1558)伊達晴宗より一族に列せられ、その後子孫が490石を以て江刺郡上門岡に居住したとされるので、居住年代はそれ以前、天文の乱で功があったものであろうか。なお中目日向守は後に大平館南西に所在する赤館へ移住したという。

 また古くは文治五年(1189)奥州合戦の折、奥州藤原氏4代泰衡が立て籠もり、藤原氏滅亡後に結城七郎朝光が居住したともいわれる。故に泰衡館とも称され、太平の地名も泰衡の名をを音読したことが由来ともいわれるが、この館が平安時代まで遡る城館であるかは疑問が残る。しかし結城朝光の名が挙げられ、また何れの古文書にも中目日向の名が現れているので、南北朝時代から戦国時代にかけて構築されたものであろう。

 なお「日本城郭大系」では太平館の別称として泰衡館の名が挙げられているが、「伊達諸城の研究」では太平館と泰衡館を別城館として記述している。しかし「伊達〜」の太平館、泰衡館何れの記述にも、『東北約400mの位置に(泰衡館あるいは太平館が)所在する』とあるので、一方は前述の赤館を指したものであろう。


 標高94m、比高28mの独立丘陵を利用した館であり、東西約180m、南北約300mの規模を持つ。頂部には現在耕作地として利用されている140m×40mほどの長方形の平場があり、その北東端に大平神社が祀られている。平場の周囲には一部土塁が見られ、またその一段下には腰郭状の平場が巡っている。南東側には数段の段築が見られるが、これは当時のものであるかは不明である。なお丘陵の周囲は水堀が巡っていたと推定されているが現在は明らかでない。


 実家に行った際に訪問した城館ですが、立ち寄ったことをしばらく忘れていた城館です(笑) 故に訪問時の記憶があまり鮮明ではないんですよね…。正直周囲がどんなだったか覚えてないっす。大平神社脇から侵入して頂部の平場を確認、土塁を見て喜んでた記憶はあるんですが、撮影した写真はおそらく未現像フィルムの中に埋もれていると思われます。今更焼いても使える写真なのだろうか?
 ってことで画像はGoogleストリートビューから加工してます。便利な世の中になったものですな。

 しかし大平(オオダイラ)と太平(タイヘイ)が混在する地名ってのも実にややこしいですね。
白石市
旧刈田郡斎川村(〜S29)
トップさくらとおしろ宮城県白石市地蔵院館
地蔵院館
地蔵院館跡遠望。
地蔵院館跡遠望。
【所在地】 白石市斎川
【別称】  
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】  
【廃城年】  
【現状】 山林
 古文献の記載、また伝承がなく、『仙台領古城書立之覚』にも記載がない。そのため中世に属することは間違いないが、正確な築城年代、築城者は不明である。奥州街道を守備する城館の一つであろう。


 東側を開いたコ字型の城館跡で、標高100m、比高40mの丘陵頂部にある平場の北、西、南三方は、高さ2〜3m、幅4〜10mの土塁が巡らされ、その外側にはいくつかの段築が設けられている。さらにその外側には外郭線に沿って空堀が巡っているが、この空堀は所々に堰を持つ水堀である可能性が強いとも言われている。城跡の東側はすぐ4号国道が南北に通じており、また破壊が進んでいるため外郭線がどの様になっていたのかは不明である。


 4号国道沿、斎川にあるパーキングの西側丘陵に標柱が建てられており、その辺りまではパーキングで休憩中や国道走行中のドライバーの目に晒されながら楽に登れます。しかしそれより上は林になっており、残念ながらまだ遺構を確認していません。かなり見事な土塁の様なので、機会があったらまた登ってみたいと思います。
トップさくらとおしろ宮城県白石市馬牛館
馬牛館
牛馬館跡標柱。
牛馬館跡標柱。
【所在地】 白石市斎川
【別称】 萬行楯城
【築城年】 天文年間(1532-55)か
【築城者】 桑折播磨守か
【城主変遷】 伊達氏[桑折氏]…
【廃城年】  
【現状】 山林
 天文年間(1532-55)伊達氏家臣桑折播磨守の居館であったとされる。桑折氏は伊達稙宗、晴宗父子が争った天文の乱において稙宗方に与し、白石城にあった晴宗勢とこの城を巡って抗争したという。
 南側に所在する馬牛沼を防御に利用した、街道守備のための城館の一つであろう。

 標高240mの丘陵を利用した城館で、本丸は東西約80m、南北約160m、二の丸は東西約68m、南北約60mの規模であった。3つの平場から構成され、頂部平場の北側には土塁が残り、周囲は崖と段築のある斜面から成っている。

 4号国道沿に標柱が建てられていますが、写真を見ても判る通り“奥州斎川孫太郎…”(…は“団子”と続きます)の看板の方が目立ち、何とも要領が得ません(隣に萬行楯城の看板もありますがね)。なお画像に左側には食堂があり、その脇の展示ケースの中に“孫太郎虫”の模型がたくさん展示されています。虫嫌いのわたしにとっては正直不気味です(失礼)。孫太郎虫とはヘビトンボの幼虫であり、孫太郎団子とは孫太郎虫を乾燥させ粉末にしたものを混ぜて作った団子であり、子供の疳の薬として食されていたそうです。斎川に生まれ育たなかった幸運を今でもひしひしと感じています(失礼)。また付近には孫太郎虫の供養塔などもあるそうです。城館の説明より孫太郎虫の説明が長い(笑)
 次回訪問の際には孫太郎虫の模型の画像…はともかく、砂が崩れて登れなかった斜面を登ってみたいと思います。が、宮城県へ行く場合は七ヶ宿街道を利用することが多いので、あまり斎川付近を通る機会が少ないんですよねー。まだあの食堂はあるのかな?
白石市
旧刈田郡白川村(〜S29)
トップさくらとおしろ宮城県白石市内親館
内親館
内親館跡遠望(Googleストリートビューより加工)。
内親館跡遠望(Googleストリートビューより加工)。
【所在地】 白石市白川内親五輪沢
【別称】 根城館
【築城年】 延徳二年(1490)か
【築城者】 宮内盛実か
【城主変遷】 宮内氏…
【廃城年】  
【現状】 山林
 延徳二年(1490)、出羽国長井荘宮内の地頭であった宮内中務盛実が、新たに4千石を賜って居住したとされる。宮内氏はその後の天文二十一年(1552)中務宗忠が白石川対岸の宮城へと移り住み、さらに宗忠の次子因幡守常清(宗清)が天正十九年(1591)加美郡色麻に転じたという。そして享保三年(1718年)より宇多郡駒ヶ嶺所を拝領、以降明治維新まで陸前浜街道における仙台藩領最南端の守備に当たっている。


 尾根が二つに分かれた丘陵上に立地しており、東西それぞれの尾根上に郭に分かれ、南中央部の平場で連結されている。館内の最高所は標高110mの西郭で、東西50m、南北25mの平場があり、また東郭の最高所には東西、南北ともに40mの平場がある。それぞれの平場には空堀、土塁が巡り、その周囲に数段の段築が配されている。遺構の見られる範囲だけでも東西500m、南北300mに及ぶ大規模な山城であった。
 沼舘愛三氏は、この内親館は東西北の防御に優れ、白石川対岸に所在する宮城と呼応して奥州街道を守備する拠点と位置付けている。これは両城館の間は狭隘な地形であり、その間を白石川が流れることで平地幅は500mに満たず、現在でも東北自動車道、4号国道、JR東北本線が通じる交通の要衝であることから頷ける。北方白石方面からの侵攻に対する関門として利用されたものであろう。


 現在はJR東北本線のトンネルが西郭の真下を通じています。初訪問の際は登城口を探してみましたが見当たらず、夕暮れが近づいていたので写真も撮影出来ず…。4号国道間近に所在する城館なので訪問する機会なんてなんぼでも作れそうなんですが、亘理町の実家に行くにも仙台市で野球観戦するにもここほとんど通らないんですよね(^-^; それでも何度か遠望を撮影している筈なんですが画像が見当たらず、Googleストリートビューの画像を加工してアップしてます。

 なお「仙台領内古城・館」の宮城の項には、宮内中務宗忠が内親館より宮城へ移住した際、名前を遠藤修理亮重清より改めたとの記述があります。これってどういうことなんでしょうね…?宮内氏は遠藤姓だってことかなぁ…?

【参考文献】「資料 仙台領内古城・館 第三巻」(宝文堂1974)、「日本城郭大系3 山形・宮城・福島」(新人物往来社1981)、「伊達諸城の研究」(伊吉書院1981)

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