栃木市
旧栃木市
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下野国府
下野国府跡復元国庁前殿及び西脇殿跡位置の藤棚。
下野国府跡復元国庁前殿及び西脇殿跡位置の藤棚。
【所在地】 栃木市田村町
【別称】  
【築城年】 8世紀前半か
【築城者】 大和朝廷
【城主変遷】 大和朝廷
【廃城年】 10世紀前半
【現状】 国府跡歴史公園、宮延神社
 大宝元年(701)に確立された律令国家体制における下野国の国府であり、8世紀前半頃に成立、10世紀前半頃まで機能したものと推定される。
 下野国府は都賀郡に所在、とのみ伝えられていたことから、その所在地は諸説あり永く不明であった。しかし栃木県教育委員会の実施した発掘調査により、その比定地の一つであった栃木市の宮延神社付近に国庁が所在していたことが明らかとなった。

 国庁の規模は、周囲を塀で区画された東西、南北ともに約95mの範囲で、南辺中央に正門である南門があり、中心部に前殿、前殿の東西に細長い東脇殿、西脇殿が造営されていた。この遺構配置から、前殿の北に大規模な正殿(政庁)があったのはほぼ確実であろうが、未発掘のため明確になっていない。
 また国府全体の規模は東西、南北ともに約1,000m以上に及んでいることが確認されており、国府の中心道路である幅約9mの朱雀大路(南大路)、その周囲に国司館と推定される遺構などが発見されている。しかし、国庁を中心に建造物、道路、溝などが方向を揃えて計画的に配置されてはいるものの、京都の様に碁盤目状に整備されていた様子は認められないという。
 なお国庁は4期の変遷が認められる。I期は奈良時代前期の8世紀前半〜中頃であり、建造物は掘建柱建物で構成され、屋根は板または檜皮葺であった。前殿は東西に同じ大きさの2棟が並び、周囲は掘建柱の板塀で区画されていた。II期は奈良時代後期の8世紀後半で、ほぼI期の建造物配置を踏襲、前殿が1棟となり、前殿、脇殿が瓦葺となった。III期は平安時代初期の9世紀前半〜中頃で、主要建造物が礎石建物となり、政庁周囲の区画も築地塀となっている。IV期は平安時代前期の9世紀後半から10世紀前半で、前殿が失われ、東西の脇殿が再び掘建柱建造物となった。

 下野国府における大きな事件といえば、天慶の乱の際の平将門による占拠であろう。天慶二年(938)、常陸国府を攻め落とした将門は、続いて下野国府へと兵を進めた。国府では丁度国司の交代時期であり、前任の大中臣完行、新任の藤原弘雅らは戦わずして降参、国印と正倉の鍵を渡した後に京都へと逐われたという。なお将門はこの後さらに上野国府を占拠し、そこで新皇を称したとされる。

 現在は国指定史跡となっており、II期の頃の前殿が復元されている。また左右にある藤棚は、東脇殿、西脇殿の位置を示しており、柱の位置や高さを模して作られている。敷地内には下野国庁跡資料館が併設され、国府の案内、発掘調査の際に出土した遺物などが展示されている。
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栃木城
栃木城跡(栃木城址公園)。
栃木城跡(栃木城址公園)。
【所在地】 栃木市城内町
【別称】 栃木陣屋
【築城年】 応永元年(1394)あるいは永享九年(1437)、天正十九年(1591)
【築城者】 皆川秀光、皆川広照
【城主変遷】 皆川氏…皆川氏(藩政1代・1591-1609)…戸田氏(1705-89)
【廃城年】 慶長十四年(1609)、天明九年(1789)
【現状】 栃木城址公園、宅地、市街地
 応永元年(1394)あるいは永享九年(1437)皆川紀伊守秀光なる人物によって築かれたとされるが、この人物については明らかでなく確証はない。むしろ天正十九年(1591)皆川山城守広照による築城とするのが一般的である。


 皆川氏は小山氏支流長沼氏の一族であり、寛喜年間(1229-32)長沼宗政の孫宗員が皆川荘に館を構え、皆川氏を称したのが始まりという。以来一時の断絶を挟みながらも皆川城を本拠に勢力を維持し、戦国時代には近隣の宇都宮氏、結城氏、北条氏らと離合集散を繰り返しながら抗争を重ねた。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城征伐が行われると、当時北条氏の配下にあった皆川広照は小田原城へ籠城し、竹鼻口の守備に就いた。この時、居城皆川城は上杉景勝、浅野長政らが率いる豊臣勢1万5千余騎に攻められ降伏、落城したが、広照は徳川家康に通じて降伏し、下野国皆川1万3千石の所領を安堵されている。

 小田原征伐後、代々の居城である皆川城を失った広照は、翌天正十九年(1591)新たに栃木城を築いて居城とした。その後広照自身も家康六男松平忠輝の傳役に取り立てられ、また慶長五年(1600)の関ヶ原合戦での佐竹氏牽制の功で3万5千石に加増されるなど、徳川政権下での地歩を順調に固めて行った。そして慶長八年(1603)忠輝が信濃国川中島藩18万石に封ぜられると、その付家老として4万石に加増の上で同国飯山藩主に封ぜられ、飯山城へと移住した。しかし同十四年(1609)、度々諫言しても受け容れず、改められない忠輝の行状を幕府へ訴え出たところ、逆に家老としての不行跡を責められ改易となり、栃木城も同時に廃城、破却されたという。なお広照は元和九年(1623)に赦免され、常陸国石岡藩主1万石の大名として返り咲き、府中陣屋へ移住している。

 その後、宝永二年(1705)に足利藩主となった戸田氏の出張陣屋が城内に置かれたが、天明九年(1789)戸田氏が新たに栃木陣屋を築いて以降は使用されることは無かった。


 広照が僅か1年半ほどで築き上げた城であったため、非常に簡素であったと伝えられている。しかし本丸、東二の丸、南二の丸、蔵屋敷、東三の丸、南三の丸の6つの郭からなる、城の周囲約927mに及ぶ広大な平城であったという。現在は城跡のほとんどが市街地となっており、東二の丸の一部が栃木城址公園として整備され、残存する土塁、水堀の一部、そして城内という地名が往時の姿を伝えるのみである。


 栃木城址公園は小さいながらも整備が良く行き届いた公園ですが、辿り着くまでがなかなか大変です。周囲は住宅地となっていて非常に入り組み、何より道路が狭い!31号県道線沿に矢印が出ていますが、進入出来るモノか逡巡して何度も往復してしまいました。
 城址公園自体は非常に小さく、見応えもそれほどありませんが、あれだけ周囲が宅地化された中で一角だけでも残ったのは奇跡でしょう。今後も是非大事にして頂き、かつての栃木城の存在を後世に伝えて欲しいものです。
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吹上城
吹上城跡碑。
吹上城跡碑。
【所在地】 栃木市吹上町
【別称】 吹上陣屋
【築城年】 戦国時代、天保十三年(1842)
【築城者】 膝附宗長、有馬氏郁
【城主変遷】 皆川氏[膝附氏]…江戸幕府[吹上代官]…有馬氏(2代・1842-69)
【廃城年】 慶長十四年(1609)、明治二年(1869)
【現状】 吹上中学校
 戦国時代、皆川城主皆川成勝の甥である膝附又太郎宗長により築城されたという。なお、成勝は皆川氏歴代で最も著名な山城守広照の祖父にあたる人物である。
 吹上城は布袋岡城とともに皆川城北方の防衛拠点であったが、慶長十四年(1609)皆川広照が改易された際、広照の居城栃木城同様に廃城になったと考えられている。

 城地はその後江戸幕府の代官陣屋が置かれ、名代官とされる山田鉄五郎らが天領支配を行った。しかし文政六年(1821)に出張陣屋であった那須郡八木沢陣屋とともに真岡陣屋に併合となり撤去された。

 江戸時代末期の天保十三年(1842)、上総国五井藩主有馬備後守氏郁が下野国吹上へ所替となり陣屋を構築、吹上藩が立藩された。
 吹上藩主有馬氏は赤松氏の流れを汲む摂津有馬氏の一族で、筑後国久留米藩主初代有馬豊氏の3男頼次が分家し、元和四年(1618)江戸幕府3代将軍家光の弟忠長に仕えたのが始まりである。忠長が改易となった後、頼次の跡を継いだ豊氏の外孫吉政は紀伊徳川氏家臣となり、徳川吉宗の8代将軍就任に伴い吉政の養子氏倫が側衆として旗本に取り立てられた。享保十一年(1726)氏倫は伊勢、下野、上総国内に采地を賜り、伊勢国西条藩1万石で大名に列する。その後天明元年(1781)西条藩5代藩主氏恕が上総国五井へ居所を移し五井藩を立藩するが、天保十三年(1842)五井藩5代藩主(氏倫有馬氏9代)氏郁の代に上総国の所領を下野、伊勢国に替えられたことで居所を吹上へと移し、吹上藩が立藩されたものである。
 吹上藩主となった有馬氏は江戸時代を通じて無城であり、居所は全て陣屋であった。また吹上藩は立藩されて僅か30年足らず、2代藩主兵庫頭氏弘の代で明治維新を迎えている。なお氏弘は有馬一族の旗本有馬則篤の次男であり、氏郁が死去した際に実子が僅か2歳の幼少であったために養子に迎えられて家督を相続したものである。


 現在吹上中学校の校地となっている台地が吹上城本丸、吹上陣屋が置かれた場所である。昭和二十二年(1947)に中学校が建設されるまでは遺構が良く残存していた様だが、現在は校舎東側に土塁、空堀の一部が残るのみという。


 中学校の敷地なので場所は直ぐ判りますが…、そこから先が大変なのも良く判ります(^-^; 取り敢えず遠望だけ撮影して退散するか、とも思いましたが、目の前まで行ったんだし残存遺構と城跡碑は見たいと思い、授業中の校地へと進入〜。職員室を訪問し教員の方へご挨拶すると、同好の士は少なく無い様で直ぐ許可を頂けました。しかしながら勝手に校地を歩き回る訳にもいかず、校舎前に建つ城跡碑、玄関にある陣屋絵図だけ撮影させて頂き退散しました。うーん、土塁、空堀も頼んで見せて頂けば良かった…orz

【参考文献】「日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬」(新人物往来社1979)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)

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