大田原市
トップさくらとおしろ栃木県大田原市荒井館
荒井館
荒井館跡南東角土塁を郭内西側より。
荒井館跡南東角土塁を郭内西側より。
【所在地】 大田原市町島
【別称】  
【築城年】 明応年間(1492-1501)以前
【築城者】 荒井志摩守
【城主変遷】 荒井氏…大田原氏
【廃城年】 明応三年(1494)か
【現状】 耕作地
 築城年代は不明、荒井志摩守によって構築されたという。

 荒井氏は明応年間(1492-1501)初頭頃に大田原康清との抗争に敗れ滅亡、その後一時康清が居館したが、間もなく明応三年(1494)水口館を構築して移り住んだため廃されたとされる。従って明応年間以前には構築され、荒井氏の拠点となっていたものであろう。


 東西、南北ともに約100mほどの単郭の方形館であり、東辺から南辺にかけての鉤方の土塁、及び北辺東側の土塁が水田に囲まれて残っている。


 発掘調査現地説明会への参加に伴い初めて訪問しました。近隣の城館跡には20年以上前に仕事の途中立ち寄っていましたが、どうしてここは初訪問なのか…当時は事前にネットで調べて〜なんて感じじゃなかったので、標柱や碑がないと目の肥えていないわたしは判らなかったんですよ(-_-;
 現説での訪問なので、以前の周囲の状況は判らず、土塁もぶった切られている状態。調査の成果を見られたのは非常に勉強になりましたが、その前の様子も見ておきたかったなーと思いました…。
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大田原城
大田原城跡案内板、標柱。
大田原城跡案内板、標柱。
【所在地】 大田原市城山
【別称】 龍体城、龍城、前室城
【築城年】 天文十二年(1543)
【築城者】 大田原資清
【城主変遷】 那須氏[大田原氏](1543-1590)-大田原氏(藩政14代・1590-1873)
【廃城年】 明治六年(1873)
【現状】 龍城公園、市街地
 天文十二年(1543)大田原資清が築城、水口館より居所を移したのが起源であり、その後も江戸時代を通じて大田原藩主大田原氏の居城となった城である。

 大田原氏は烏山城主那須氏家臣であり、那須七騎と称される重臣であった。しかし永正十五年(1518)、大田原資清は同じく那須氏重臣であった白旗城主大関氏、福原城主福原氏らによる讒言で失脚、越前国へと逃れた。出家して永平寺に潜み、旧領復帰を狙っていた資清は、主家那須氏への工作、そして越前国一乗谷の朝倉孝景の後援を受け天文十一年(1542)復帰を果たし、仇敵大関氏、福原氏に養子を送り込むなどして勢力を恢復、那須家中の実権を掌握した。

 旧領復帰の翌天文十二年(1543)、資清は大田原城を築城し居を移した。大田原氏は永く水口館を居館としていたが、単郭の平地館であったためより要害の地を求めたためでであろう。

 資清の死後家督を継承した子の綱清は、長兄大関高増、次兄福原資孝とともに那須家中での勢力を拡大するが、兄弟による専横は主家当主那須資胤との対立を生み、しばしば合戦に及ぶなど混乱が続いた。しかし、家中の混乱は那須氏の領国を狙う近隣諸勢力を利するのみとする伊王野氏、興野氏らほかの重臣の調停もあり和睦、以降は家中の中心勢力として主家を盛り立てた。
 天正十六年(1588)病を得た綱清は、自身の名代として次子増清に上洛を命じて豊臣秀吉に謁見させるが、これが大田原氏の命運を大きく左右した。同十八年(1590)秀吉による小田原城征伐が行われるが、同年家督を継承した晴清が参陣するに当たり駿府国沼津で秀吉に謁見、既に弟増清が謁見を済ませていたこともあり、大田原氏は7100石余の所領を安堵され、独立した勢力と看做されるようになった。しかしその一方で、晴清より秀吉への服従は時期尚早と説かれた主家当主那須資晴は小田原へ遅参、結果改易処分とされてしまう。その後晴資が秀吉に陳謝し、資晴の子資景が家名存続を許され、5000石の所領が与えられている。

 慶長五年(1600)関ヶ原合戦においては、晴清は東軍に属して上杉氏の南進に備え、その功により800石を加増された。次いで同七年(1602)には4500石を加増され、合わせて1万2400石を領して大名に列した(その後晴清の孫、3代藩主高清が弟為清に1000石を分知し1万1400石となる)。
 以降大田原氏は、江戸時代を通じて移封されることなく大田原藩主として当地を治めた。しかし慶応四年(1868)戊辰戦争が始まり、14代藩主一清(勝清)が新政府方に与することを決定すると、地理的に東北地方に近い大田原城は新政府軍の重要拠点となると目された。そのため旧幕府方に与した東北諸藩により攻撃を受け、城下や三の丸を焼失している。
 そして明治六年(1873)、明治政府の廃城令により廃城となった。


 大田原市域中心部を南北に流れる蛇尾川西岸、龍体山と称される丘陵上に築かれた平山城である。比高約25mの丘陵最高所に東西約40m、南北約65mの本丸があり、本丸を挟んで南側に空堀を隔てて一段低い二の丸、さらにその南西に近世に御殿が置かれた三の丸があり、北側には2段になっている北曲輪が配されている。現在は龍城公園として整備されているが、その入口、三日月堀や土塁が残り、案内板が設置されている付近が大手口の枡形であり、往時は坂下門が置かれていた。城域はその西側にも続いていたが、現在は市街地化されており、城下町特有の複雑な十字路や丁字路、鉤方に屈曲した道路が残っている。
 龍城公園の北西、大田原氏の菩提寺である光真寺には江戸時代中期頃の城門が移築されていたが、文政八年(1825)に焼失し、現在の光真寺総門はその直後に再建されたものである。


 仕事で栃木県の営業担当をしていた頃に訪問していましたが、その後約25年振りに訪問したらやっぱりほとんど様子を覚えていませんでした(^-^; 本丸を囲む土塁は5〜6mほどの高さがあり見応え十分なんですが、帰宅して撮影した画像を見てみると腕が悪いのかその迫力が伝えられないものばかり…ってことで案内板画像でお茶を濁すわたし。
トップさくらとおしろ栃木県大田原市荻野目城
荻野目城
荻野目城跡石碑。
荻野目城跡石碑。
【所在地】 大田原市荻野目
【別称】  
【築城年】 元中年間(1384-70)
【築城者】 荻野目信隆
【城主変遷】 那須氏[荻野目氏]
【廃城年】 慶長年間(1596-1615)
【現状】 耕作地
 元中年間(1384-70)那須氏一族玄蕃信隆が築城したとされる。以後荻野目氏を称し居住、戦国時代には烏山城主那須資晴家臣として荻野目玄蕃の名が見られるが、慶長年間(1596-1615)初頭に廃されたとされる。


 現在は一面の耕作地となっており遺構はほぼ残っていない。西北部に僅かに堀が残るとされる。


 “ダンシングヒーロー”の再ヒットで一時期注目された歌手の荻野目洋子さん、その姉で女優の荻野目恵子さんの祖先の城、ということで知られる?城館跡。遺構は残っていないとは資料を見て知ってましたが、まあ話題性はあるよな…と思いつつ訪問。
 情報の通り一面の水田地となっていて、散策コース?案内の「荻の目城」案内板近くに水路と僅かな土盛を見つけ、これが残存する堀の名残かな…?程度で退散しようと思いました。最後にその案内板をもう一度見ておこうと振り返ると、ガードレールの影に三角形の石碑を発見。良く見てみたらかわいい城跡碑がありました(^-^)b
 なーんにも残ってませんが、ここに城跡があったってことだけでも伝われば…って感じですかね。
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水口館
水口館跡土塁、標柱。
水口館跡土塁、標柱。
【所在地】 大田原市荻野目
【別称】  
【築城年】 明応三年(1494)
【築城者】 大俵康清
【城主変遷】 那須氏[大俵(大田原)氏]
【廃城年】 天文十二年(1543)
【現状】 耕作地
 明応三年(1494)大俵康清によって築かれたとされる方形居館。

 大俵康清は初め丹治比、あるいは阿保氏を称していたと見られるが、武蔵国(阿保郷か)より那須郡大俵へ移住、大俵を称して烏山城主那須氏に仕えたとされる。明応年間(1492-1501)初頭頃に荒井氏を攻め滅ぼしてその居館荒井館に居住したが、程なく水口館を築いて居を移したという。

 大俵氏は後に大田原と改め、那須七騎と称される那須氏の有力家臣となる。しかし永正十五年(1518)大田原資清が白旗城主大関宗増、福原城主福原資安らの讒言により失脚、越前国へと逃れ出家して永平寺に潜んだ。それでも旧領復帰を諦めなかった資清は、女を主家当主那須政資に嫁がせるなどの工作、また越前国一乗谷の朝倉孝景の後援を受けて天文十一年(1542)に復帰、宗増の子増次を攻めて自刃へ追い込み、長子高増を養子として大関氏の名跡を継がせた。また福原氏には政資の命として次子資孝を養子に送り込み、那須七騎のうち三家を支配し、那須家中の実権を掌握した。

 その後天文十二年(1543)に大田原城を築城、水口館を廃して居を移したが、以後子孫は江戸時代を通じて所領を守り明治維新を迎えている。


 東西、南北ともに約73mの規模を持つ単郭の方形居館であり、郭内を囲む北側半分の土塁がコ字状に現存する。なお南側も、土塁は崩されているがl耕作地や農道、水路の様子で概ね判別可能である。以前は方形の主郭部を囲む堀の外側にも土塁が見られた様であるが、現在は判然としない。


 解説板が設置されているのは知っていましたがそれほど期待もせずに訪問…しかし見事に主郭部の土塁が現存しており喜んでしまいました(^-^)b さてその周囲の土塁(つまり回字状だったんでしょうね)を探してみよう!と思いましたが、宅地だったりほかの水田面の方が高かったりで判然とせず。あれー?
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八木沢陣屋
八木沢陣屋跡石碑。
八木沢陣屋跡石碑。
【所在地】 大田原市親園
【別称】  
【築城年】 享和三年(1803)
【築城者】 江戸幕府
【城主変遷】 江戸幕府[吹上代官](1803-1823)
【廃城年】 文政六年(1823)
【現状】 宅地、耕作地
 江戸幕府吹上陣屋代官山田鉄五郎により、享和三年(1803)に設けられた出張陣屋で、那須郡内58箇村、塩谷郡内4箇村の計1万8700石余の支配拠点となった。
 文政四年(1821)山口の死去後は、竹内平右衛門の預支配を経て翌年代官古山善既知が赴任するが、その翌年には吹上陣屋とともに真岡陣屋に併合となり撤去された。


 規模などは明確でなく、遺構も残存していません。民家脇に立てられたかわいい石碑だけがここに陣屋が置かれていたことを物語っています。

【参考文献】「日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬」(新人物往来社1979)、「那須の戦国時代」(下野新聞社1989)

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