米沢市
旧東置賜郡上郷村(〜S30)
トップさくらとおしろ山形県米沢市上谷地館
上谷地館
上谷地館跡土塁。
上谷地館跡土塁。
【所在地】 米沢市川井
【別称】 安倍館
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】 (伊達氏[茂庭(安倍)氏])…
【廃城年】  
【現状】 耕作地、古峰神社
 築城年代、築城者は不明。館主は伝承に拠れば2説あり、藤原秀郷一族子孫とするものと、伊達氏家臣茂庭周防の嫡子安倍頼母とするものである。なお発掘調査の際に中世陶器に類するものが出土しており、後者が妥当であろうと考えられている。なお安倍頼母の父周防は川井館に居住したとされる。


 県立米沢工業高校東側の古峰神社付近に所在し、現在は畑地となっている。館跡西側は235号県道が南北に通じているため削平されており、周囲の土塁、堀も開墾によって破壊されているが、南東隅の一部が現存する。往時は土塁と約10mほどの堀に囲まれた、一町(約100m)四方の単郭方形館であったと推定されている。


 館主として伝承される安倍頼母、ぐぐっても判らない…。その父とされる“茂庭周防”といえば著名なのは良直入道左月さん、確かに茂庭(鬼庭)氏は南北朝期に伊達氏が置賜地方に勢力を伸張した際にその先鋒を務め、以後川井館に居住したともされますが、その後周防守を称した何れかの歴代当主のお子さんなんですかね?
 もう一説ある藤原秀郷一族子孫というのも、なーんとなく斎藤系茂庭氏(伊達郡茂庭に住した一族、つまり鬼庭氏の系統)と、河村系茂庭氏(名取郡茂庭に住した秀郷流藤原氏一族)を混同しただけじゃなかろうか…なんて思いましたが、伊達氏勢力下となる前までは置賜郡は秀郷流藤原氏である花沢城主佐藤氏(大鳥城主佐藤氏一族)の所領だったんですよね…。うーん、判らん。
トップさくらとおしろ山形県米沢市木和田館
木和田館
木和田館跡北辺土塁、堀跡及び解説板。
木和田館跡北辺土塁、堀跡及び解説板。
【所在地】 山形市木和田
【別称】  
【築城年】 平安、鎌倉時代
【築城者】  
【城主変遷】  
【廃城年】  
【現状】 山林
 築城年代、築城者、館主など一切不明だが、発掘調査の際の出土遺物から12世紀後半〜末頃に構築されたものと推定されている。

 周囲を土塁、堀で画した南北約53m、東西約62mの単郭方形館であり、北、東、南側に開口部が見られる。木和田集落側となる北側に解説板が建てられ、その脇が枡形状となっているが、「山形県中世城館遺跡調査報告書」に記載される略図では東側開口部を大手と記している。北、東側の何れかと、南側開口部は後世の改変を受けているものであろう。

 前述の出土遺物などから東北地方では最も古い年代の城館跡と推定されており、その規模から僅かな所領と郎党を従えた名主的武士層の居館と考えられている。


 義父母を連れて買物に行った際、奥さんに“2、3箇所だけ立ち寄りたーい”と許しを得て訪問。故にあまり時間は取れませんでしたが、遺構は明瞭に残っておりました。
 北側の“枡形虎口”状の遺構部分から内部に侵入出来ますが、歩いてみるとこれ枡形かなあ…?という印象。素人目にはこちらも改変されている様に感じたました。かと言って、大手口とされている東側開口部も土塁が切れてるだけなんですけどね。
トップさくらとおしろ山形県米沢市羽黒神社館
羽黒神社館
羽黒神社館跡北面帯曲輪。
羽黒神社館跡北面帯曲輪。
【所在地】 山形市川井
【別称】  
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】  
【廃城年】  
【現状】 羽黒神社
 築城年代、築城者、館主など詳細は一切不明。現在羽黒神社が祀られる小丘陵が館跡とされている。


 比高約16mほどの独立丘陵であり、神社が祀られる頂部は東西約60m、南北約40mほどの楕円形の平場となっている。平場の周囲に特に目立った遺構は見られないが、丘陵北面に帯曲輪が2段ほど構築されている。
 頂部の羽黒神社は、伝承では天正年間(1573-92)伊達氏家臣茂庭周防守が厚く崇拝していたとされており、茂庭氏居館である川井館と密接な関係があったものと推定されている。


 自宅から実家へ向かう途中に丘陵脇を何度も通っていたんですが、夜に遠目に見ると山影がちょっと小トトロっぽく見えるんですよね(^-^; なので通過する時には娘に“ほらトトロの森だよ〜”なんて言ってたんですが…後から城館跡だと知り驚きました(-_-;
トップさくらとおしろ山形県米沢市古峰神社館
古峰神社館
古峰神社館跡主郭部。
古峰神社館跡主郭部。
【所在地】 山形市竹井
【別称】  
【築城年】  
【築城者】  
【城主変遷】  
【廃城年】  
【現状】 古峰神社
 築城年代、築城者、館主など詳細は一切不明。標高約265mの通称古織部山南東部に所在し、現在古峰神社の小祠が祀られる。


 主郭部は南北15m、東西約10mほどの2段の小規模な平場となっており、前述の小祠が祀られている。その平場から南麓へと参道が通じているが、その階段に沿って東西約10m、南北約2mほどの腰曲輪が6段設けられている。
 当館の北方約1kmには長手城、西方約1kmには川井館が所在しており、その位置関係と当館の規模、構造から、物見、もしくは烽火台的な役割であったと推定されている。


 参道をにょろにょろ登って行くと画像の鳥居、そして祠がありますが、城館としての機能は感じられません。現在南側に参道がついていますが、長手城、川井館に関連する遺構であるとすれば、北西側に続く古織部山にも遺構が残ってそうなもんですけどね…?

【参考文献】「山形県中世城館遺跡調査報告書第1集 置賜地域」(山形県教育委員会1996)

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