河北町
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谷地城
谷地城本丸跡石碑、土塁及び三宮社。
谷地城本丸跡石碑、土塁及び三宮社。
【所在地】 河北町谷地己
【別称】  
【築城年】 南北朝時代末期
【築城者】 中条長国か
【城主変遷】 中条(小田島)氏−白鳥氏(1558頃-1584)−最上氏[斎藤氏](1584-1600)−上杉氏[下氏](1600)−最上氏(1600-1622)
【廃城年】 元和八年(1622)
【現状】 市街地、三社宮
 南北朝時代末期、武蔵国横山党の中条氏によって築かれたのが起源とされる。

 中条氏は源頼朝の御家人として鎌倉幕府成立に貢献、評定衆や尾張国守護を務めた中条家長を祖とし、出羽国小田島荘の地頭職に任ぜられた。その庶流が当地へ下向し、小田島氏を称して南北朝時代を迎える。南朝方に与した小田島氏は結城氏の麾下に入るが、その後結城氏が北朝方に転ずると離反し小田島荘を掌握した。しかし北朝方の斯波家兼(山形城主最上氏祖)が出羽国へ下向すると、小田島(長国か)氏は所領の大半を棄てて谷地城へと逃れた。
 その後も小田島氏は谷地城にあり、中条備前守が応永三年(1396)、同十三年(1406)に所領を安堵された記録が残るが、小田島長国4代孫長昌の代で嗣子なく断絶した。

 小田島(中条)氏断絶後、北方の白鳥城主白鳥十郎長久が谷地へ進出し、永禄元年(1558)頃に谷地城へと居城を移した。さらに天正十一年(1583)頃までに城の大改修を行い、河北地方に大きく勢力を拡大した。
 白鳥氏の出自は諸説あり、“武家評林”によると前九年合戦で源頼義の追討を受けた衣川安倍氏の系流といわれ、胆沢郡白鳥柵より逃れた安倍頼時八男行任が葉山山麓に潜伏し、寛治五年(1091)から白鳥冠者八郎を称したのが始まりとされる(なお村山市史編纂室の方は否定的なことをおっしゃってました)。また大江氏一族で寒河江城主寒河江氏の同族とも、中条氏の同属で嗣子のなかった中条長昌の跡を譲られて谷地城に入ったともいわれる。後者は谷地進出を正当化するためのもので、現在は地元出身の土豪であったとするのが有力である。

 白鳥長久はその剛勇のみならず卓越した外交手腕を持ち、天文十一年(1542)より南奥羽全体を巻き込んだ伊達稙宗と嫡子晴宗の争い、いわゆる天文の乱において、最上氏援軍の仲介を執っている。また最上義守の後継問題で、嫡子義光が義守、弟義時と対立した際もその仲介を行い、天正二年(1574)最上氏内紛に乗じ、舅である義守救援を口実に最上領へ侵攻した伊達輝宗と義光の和睦も仲介している。長久は谷地城下を整備して地盤を固めると共に、政治力を以て最上氏、伊達氏の勢力に並ぶほどの実力を持ったのである。そして同五年(1577)には織田信長に名馬を贈り、大層喜んだ信長より書簡や多くの品を返礼として贈られている。長久の目は天下の情勢を正確に判断していたのである。

 しかし信長と親交を深める長久の行動は、後継問題を乗り越えて反抗勢力を次々に粛正、最上家中をまとめて戦国大名として台頭してきた最上義光を刺激した。義光は村山郡北方への勢力拡大には長久が邪魔であったが、その武勇は侮りがたく、まず姻戚関係を持つことで懐柔を図った。そして長久を殺害すべく山形城へ招くが、もちろんその謀略を見抜けない長久ではなく、なかなか招きを受けようとはしなかった。そこで義光は重病を装い、最上氏の今後を託したいと再三に渡り持ちかけ、ついに天正十二年(1584)招きに応じて訪れた長久を枕元で斬殺した。
 谷地城は長久の死の前年に一応の完成を見、平城ながら堅城へと発展していた。しかし主を失った城兵は、寒河江氏らと共に抵抗を見せるも、最上勢の侵攻によって落城した。

 その後谷地城には最上氏城代として斎藤伊予守光則が置かれるが、慶長五年(1600)関ヶ原合戦に伴う出羽合戦において上杉氏家臣の尾浦城主下治右衛門秀久(吉忠)によって攻め落とされている。しかし関ヶ原での徳川方の勝利後、直江兼続の長谷堂城下からの撤退を知らされておらず、退却の遅れた秀久以下約2500の上杉勢は城内に孤立、勢いを盛り返した最上勢の攻撃を11日間支えた後に降伏した。このことからも、長久が長い年月をかけ、丹誠込めて整備した谷地城の堅固さを知ることができる。江戸幕府が成立し、最上氏が山形57万石の大名となると谷地もその所領となった。しかし最上氏は内紛によって元和八年(1622)改易となり、それに伴い谷地城も廃城、破却された。


 現在は市街地となり、遺構はほとんど破壊されて原形を留めず、僅かに三社宮のある場所に本丸土塁の一部が遺っています。現在の内楯を中心とした地域が本丸、そして二の丸まであったとされています。南東にある東林寺には白鳥十郎長久の墓がありますが、訪問時には行かれませんでした。
 ちなみに役場のすぐ近くに小さな動物園?があり、うさぎとあらいぐまとおさる(と何がいたっけ?)が住んでました。りんが小さいときに行ったのですが、幼稚園年長さんになった時に憶えているか尋ねたら「知らない」と(>_<; うさぎとあそんで喜んでたのになー。その割に、南会津のあるお城できつねを見たのは憶えてる、何故?

【参考文献】「日本城郭大系2 青森・秋田・岩手」(新人物往来社1980)、「出羽諸城の研究」(伊吉書院1980)、「山形県城郭古絵図展」(最上義光歴史館1990)、「江戸幕藩大名家辞典 全三巻」(原書房1992)、「日本の名城・古城もの知り辞典」(主婦と生活社1992)、「図説 日本の名城」(河出書房新社1994)、「山形県中世城館遺跡調査報告書第2集 村山地域」(山形県教育委員会1996)、「歴史と旅増刊 戦国大名城郭辞典」(秋田書店1998)、「古写真大図鑑 日本の名城」(講談社+α文庫1998)、「山形県山辺町埋蔵文化財調査報告書第9集 高楯城跡発掘調査報告書」(山辺町教育委員会2000)、「定本 日本城郭辞典」(秋田書店2000)、「新全国歴史散歩シリーズ6 山形県の歴史散歩」(山川出版社2001)、「週刊名城をゆく36 山形城」(小学館2004)

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