はじめに
トヨタ 2代目カローラ4DrDX(KE20)との出会い。
高校時代まで遡る。
高校時代 | 元々親父が単車屋を営んでいたので、子供の頃から機械ものに親しんでいた27番は、中学1年生の時に修理の基本を叩き込まれ、高校生の時には、いっぱしの整備士を気取って店を手伝っていた。 当然、始めは単車に夢中であったが、高校生の時に創刊された「CARBOY」に出会い、興味は四輪に移っていったのであった。 その頃は「オートメカニック」などを愛読していたのだが、「CARBOY」の存在は衝撃的であった。 チューニングを解説する雑誌の出始めで、しかも内容はプライベーターのためのものだった。 その中で頻繁に登場するのが、日産の名機L型やA型、トヨタのT型やK型であった。 高校時代の友人で同じく車好きがいて、そいつがA型派だったので、私はK型派となったいて、免許を持たないガキんちょが、空想でチューニングして速さ?を競っていたのだった。 その頃、免許を取ったら4K搭載のKP61スターレット角目Sを新車で購入して乗ろうと決めていた。 しかし免許を取得した時、最終型のスラントにモデルチェンジし、購入を断念した。 |
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出会い | それから約10年後の'94年、勤務先の同期が乗っていたカローラが我がガレージにやってきた。 このカローラこそ2代目カローラ4DrDXのKE20だった。 同期の親父が新車で購入した1オーナーカーを親子2代で乗り継いでいたが、車を買い換える時、譲ってくれと頼み、やってきたのだ。 購入目的は、初めからヒストリックレーサーにすることだった。 その頃27番は、すでにロメオでサーキットを走っていたが、2000GTVは本国では1970年に製造されていたが、日本での型式取得が1971年2月だったため、その頃のJCCAやTACSレギュレーションの”1970年までに製造された車両”に合致せず出場できるレースがなかった。 '94年からチャオイタリアが始まったが、参戦できるJAFレースは年間でこれ1戦のみだった。 KE20の身売り話を聞き、1971年製だったがKE20は1970年から製造されていたので、クラッシクカーレースに参加可能だったので、その時代にレースに参加したい欲求の矛先を変えるべく、ヒストリックレーサーにするために譲り受けたのです。 それはくしくもK型エンジンなのである。 |
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