堀愼吉資料室 

 あとがき

 三年前の正月、帰省していた中沢新一さんと誘い合って、近くの神社に初詣に行った。おまいりをすませた後、彼は「久しぶりに笛吹川の丸石神を訪ねてみたい」と言った。私たちは、笛吹川の上流にあるダムの近くの集落まで車を走らせた。彼と一緒に、その丸石神を訪ねるのは、十数年ぶりのことであった。それは、彼の父、民俗学者だった故中沢厚先生が、若き日に丸石神の尊さに目覚めるきっかけとなったものであった。
 いつもはサービス精神を発揮して、冗談や皮肉をとばす彼が、その日は車の中でもめずらしく寡黙だった。丸石神の前に立った時、普段は決して人にはみせないような、孤独で静かな眼差しをして、彼はしばらく丸石神の前にたたずんでいた。きびしい闘いをたたかっている人の顔がそこにあった。
 帰りの車の中で、「何かを実現するにしては、僕にはもうあまり時間が残されていない。あと十年もないかもしれない」と私がひとりごちるのを聞いて、「堀さん、十年あれば、相当のことができるんだよ」と彼が言った。その言葉を聞いて、私は自分の人生を通して得てきた最も尊いと思えるものにむかって、残された人生を力を尽くして歩いてみようと決心した。彼が長い歳月をかけて取り組んだ名著『森のバロック』が上梓されたのは、その年の秋のことであった。
 あれからまだ三年しか経っていないのが嘘のようだ。その時には、想像することすらできなかったのに、いま私は自分の作品集を出版するという幸運にめぐまれている。そして、まだ十全には形をなしているとはいえない、私の新しい仕事に対して、中沢新一さんは、私の感じてきたこと、考えてきたこと、希ってきたことのすべてを照らしだし、方向づけてくれた。彼の深い友情に、心からお礼を申し上げたい。

 いま、私の家に、西アフリカ、トポケ族の祭祀用盾(資料室註)と、ミンダナオ島高地民族のシャーマンボックスがある。その二つを飾る壁は、私の聖なる場所である。
 自分の精神の波動が弱くなった時、方向を見失いそうな時、私は思わずその前に座っている。そうすると、私のなかに、静かな力のようなものが流れ込んでくる。その二つのものは、地球上で何万キロもへだたった場所で生まれたにもかかわらず、まるで同じ部族の手でつくられたかのように、共通したなにかをはらんで、人間にとって本当に根源的なものは何かということを伝えてくる。
 この第一級のプリミチブな作物を、私のために持ってきてくれたのは俵有作さんである。俵さんは、長いブランクの後で、やっと歩きはじめた私をはげまし、勇気づけ、まだ海のものとも山のものともつかぬ私の作品集を出版してくださるという。
 俵さんは、私が出会ったなかで、最も共鳴できるものを持った芸術家である。俵さんには、ご自身の作品集が何冊もできるすぐれた仕事がたくさんある。なかでも、重力から解放されたような勁い抽象的なかたちが、色とも光ともつかぬ、あえかで透明な空間の中に浮かぶ「ニルヴァーナ」の連作は、どこまで歩いていけば、そんな美しい世界が見えるようになるのだろうと思うほど、私にははるかなものだ。私の作品集などより、俵さんの仕事を本にまとめていくほうが、本当はよほど価値のあることに思われる。
 尻込みする私を励まして、「その時しかのこせない仕事もあるのだから」と言って、私の貧しい仕事を本にしてくださった俵さん。そのご好意に応えることのできる日があるのだろうか。
 私を初めて甲州の丸石神へといざなってくれた、いまは亡き石子順造さん。甲州での暮らしを、まるで一族のように温かく迎えてくれた中沢家、飯島家の方々。私を生かし、再生へと導いてくれた、たくさんの人々やモノたちに、いま私は自分の気持ちをどのように伝えればいいのか、言葉がみつからない。
 私の作品など遠くおよばない、美しいもの、尊いものが、まだ私たちの身近にたくさんのこされている。いまとなっては取り返しがつかないのかもしれないが、私はそうしたものの価値に、人々が気づいてくれることを希いながら、微力でも彼らの拙い通訳になれたらと考えている。
 作品集の題字は、備後屋のご主人岡田弘さんにお願いした。何枚も届けてくださった書を眺めながら、いままで経験したことのない贅沢を味わっているような気持ちになった。この書を生涯の友とできるような仕事を続けていきたいと思っている。

                 一九九四年四月吉日 堀 愼吉
 初出:堀 愼吉作品集『草茅の楽土』(ギャラリー華 1994年6月22日発行)

■資料室より補足
(資料室註)……著者は「西アフリカ、トポケ族の祭祀用盾」と書いてありますが、『AFRICAN SHIELDS』という書籍によると、トポケはコンゴ民主共和国。西アフリカは間違いで、中部アフリカと呼ばれる地域と思われます。2014/05/15記述
 

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