堀愼吉資料室

美術の世界に物語性復活--セル・ユニオン展に思う--

 一九六〇年代は、表現活動のあらゆる分野で一種異様な熱気が支配した季節だった。
 美術表現のジャンルでいえば、今日、日常語となっているハプニングやイベントなどという言葉が、美術の表現形式の一つとして登場して、絵や彫刻が美術だと考えていた人々をスキャンダラスな驚きに包んだ。実際、抽象的な絵画や彫刻でさえ、わけがわからないと思っている人々にとっては、地面に穴を掘ったり、自分の死亡通知や行方不明捜査願いを発送したり、峡谷の岩に数字を書いたりする行為が美術表現の一種だなどと言われても、頭のおかしな連中の気狂い沙汰(さた)という以外の理解のしようもなかったであろう。しかし、それは気狂い沙汰でも何でもなく、美術表現というもののなかにはらまれた矛盾がしだいに明白化してきた結果の所産に他ならなかった。それは近代絵画の父といわれるセザンヌ、あるいは現代美術の父といわれるピカソなどが、絵画史上に観念性の強い絵画を手にして登場して、人々を驚かしたのと同じ次元の延長線上にもたらされたものであった。
 セザンヌがサント・ヴィクトワールの山を描くとき円錐形などに分解した空間のシンフォニーとして現前の風景を解体したり、ピカソが人間の顔を解体したりしても、再び絵画として画面に再構築したかわりに、六〇年代を生きた芸術家達にとっては美術表現という形式までも解体するという作業に手を染める他なくなっていた。それは、つねに新しい普遍性を求め続けて来た美術の歴史の大きな流れのなかで予定されていたことでもあった。人間の精神や観念が一人の芸術家の主観の問題を超えて絵画という視覚芸術のなかで自律し始めた時から、それが絵画や彫刻という表現形式の枠を超えて、時代の普遍性として一人歩きを始めるのは時間の問題にすぎなかった。六〇年代を生きた世界の若い芸術家にとって、こうした共通認識が同時代を生きる者の絆となり、新しい表現方法へとかりたてていった。
 ニューヨークもパリもワルシャワも東京も山梨もなく、有名無名もなく、一つの時代を共有しているという熱気と若々しい興奮とがこの時代の芸術家達をとらえていた。いみじくも、六〇年代アメリカ現代美術のスーパースター、アンディ・ウォーホールが言ったように「世界中のすべての人々が一秒間英雄になるチャンス」で結ばれた時代であり、また、絵画芸術という形式(肉体)が解体していく芸術の自己運動のただ中にあって、『非物質化』『からっぽ』という思惟(しい)をかかげて、ピカソ、マチス以後のヨーロッパ現代美術の旗手となったイブ・クラインが「ぼくらは世界の果にいる。どう、帰ろうか……ぼくたちは身を投げ入れる、このからっぽの世界へ」と歌った認識--美術家が永い間表現のよりどころとしてきた絵画芸術の週末終末に立ち会っているのだという認識--が私達を見えない糸で結んでいた。
 この時期、山梨でセル・ユニオンという若い芸術家の集団が結成され、活動を始めた。この集団は山梨の地で初めてこうした同時代の表現活動にコミットした集団であった。芸術や美術に対する既成概念の支配していた、この土地に、六七年の県民会館の第一回展を皮切りに、グループのメンバーは次々と注目すべき仕事を発表した。このグループの創立メンバーの一人、田中孝道は自分の失踪捜索願いを出品して自分の肉体の消滅を宣言し、物質的優位性が支配する現代人の観念に痛烈な皮肉の矢を放ち、それ以後も、肉体を失った人間からさまよい出た思惟を、ローソクの火に呼び寄せようとでもいうような魔胎火焔曼荼羅(いずれも『現代の美術11--講談社』針生一郎編集録作品より)という儀式的イベントを行った。田中のこれらのイベントは明らかにイブ・クラインの表現思想に呼応するものだし、この田中をはじめ、藤原治夫や福島晴彦、宿沢育夫などのメンバーが参画した。芸術の終末と観念の交信を表現思想としてはらんだニルバーナという運動も、この時期の表現活動の一つとして国際的にもエポックメイキングなものであった。また、印画紙を壁に下げた仕事や、汗や酢酸、水、空気などの瓶詰めと人体の体温グラフによって肉体物質における時間の推移を提出した藤原治夫の仕事などは、一九七〇年の東京国際美術展に出品された、河口竜夫やオランダのヘル・ファン・エルクの作品に先がける注目すべき表現であった※1
 このセル・ユニオンの展覧会が今年で九回展を迎えるという。このメンバーは、六〇年代の熱気が去った後、解体された絵画表現という形式を超えた表現の可能性を求めて、再び孤立無援の旅に出たようだ。そして、物質の持つ肉体性と人間の観念が切り結ぶ出会いの瞬間に賭けた実験が個々のなかでこころみられ、自らの表現形式を胎生させるための努力が続けられてきた。そして、これらの動きの中から、物質と人間の間に交流する、新しい詩(うた)が生まれ、美術の世界から長い間失われていた物語性が静かに復活しはじめる気配がある。

※1……赤字の部分が新聞では抜けている。文意が違ってしまうので、筆者の原稿に基づいて補足。

                               堀 愼吉
                  初出:山梨日日新聞 (1982年7月26日)


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