堀愼吉資料室

カオスの彼方から--小谷雅朗展によせて--

 小谷さんの作品を最初に見せてもらってから、もう十数年がたつ。その頃の彼の仕事は、どこかタピエスの影響を思わすような強い質感と大胆なタッチが特徴的なものであった。彼の内なるカオスは、輻輳(ふくそう)した画面の構造そのままに、まだ落ち着く先を定めかねているように見えた。
 しかし、それから数年たって、山梨県立美術館で開かれていたグループ展に出品された彼の仕事は、明確な方向性と個性をきわだたせたものになっていて、私に強い衝撃をもたらした。その時の作品群は、長径が1メートル以上ある有機的な楕円形をしていて、細かいマチエールをきわだたせた、地表を思わすモノトーンの仕事であった。
 一点一点の作品の渋く寡黙な色調は、かつて目にしたことのない、深い奥行きをともなっていた。そして、10点近く並んだ作品群は、それぞれのモノトーンの色調が互いに共鳴し合って倍音を発しているように見えた。それらの作品群の深く静かな色調は、自然の土の色によるものであった。私もまた「土」をテーマにした仕事をずっと続けていたこともあって、小谷さんのその仕事にすぐに直截な共感をおぼえたのであった。
 近頃のエコロジカルな関心や風潮に呼応するかのように、最近では美術の世界でも、特にインスタレーションや立体的作品に、木や手すきの紙や石や土などの自然物質を素材とする仕事をたくさん目にするようになった。しかし、自然物質を作品化したからといって、それがそのまま、自然を内部化したことにはならない。自然物質を作品化する行為は、むしろ自然の持つ絶対調和を冒す行為にほかならないからである。
 それゆえに、作家にとっては、それを作品の中に取り込むことに、本当の内的必然性があるかどうかが厳しく問われることになる。自然を人間の手で破綻させたうえで、なおかつ作品として提出するからには、作家自身にそれなりの自覚が求められるのだ。そうでなければ、それらの作品は芸術に名を借りた公害に堕ちてしまうだけだ。
 小谷さんの最近の仕事には、「記憶」というタイトルがつけられている。たぶんそれには、彼自身の内的記憶とともに、土に孕まれた記憶も重ね合わされているのだろう。
 人間の記憶のなかには、前の日の出来事の記憶もあれば、生物発生以来の遺伝子に組み込まれた記憶もある。「土」の記憶には森を育てていた頃の記憶も、宇宙が誕生して以来の記憶もたたみ込まれている。
 だから、「記憶」というのは、カオスそのものの喩(たと)えにほかならない。自然の土の色彩は、だから、未分化のカオスを抱え持ったままの色なのである。それにくらべて、絵の具の色は、固有の色彩として視覚的に純化されたもので、すでに自然のカオスからは遠い存在である。
 小谷さんの新しい仕事は、あらゆる事物の生成と存在のはじまりであるカオスの場所から、あらためて歩きはじめようとする、決意をともなった試みなのだろう。
 このところ小谷さんの仕事は、描かれたものや造られたものという枠を超え、それ自体一個の自律した事物へと化身した、完成度の高い境地を切り拓いている。たぶん、カオスそのものを、何かに結晶させる働きを司る、大いなるものの手が彼の魂に寄り添い、手を貸しているのだろう。近作には、私たち自身や自然が抱え持つカオスの彼方に広がる、無限の追憶へといざなう、不思議な奥深さが宿っている。
                    2000年4月吉日

堀 愼吉 初出:小谷雅朗展「記憶」案内状(ギャラリー繭2000年5月23日~31日)

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