堀愼吉資料室 |
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「不思議な美しさ」の磁場 俵氏は、紙と墨と筆という古来から中国や日本に伝わってきた表現素材を駆使して、森羅万象の目にみえぬ不思議な働きをつかさどる豊穣の世界へと分け入る。 彼は、紙の上を自在に動く筆の跡の、墨のかすれやにじみ、あるいは黒々とした痕跡をたどりながら、まるで獣骨のひび割れから世界を卜するシャーマンのように、そこに表れでる生命や宇宙の働きの神秘に迫っていく。 その墨象の多くは、オートマチズム(自動記述)の筆法に依っている。このことは、彼の内に抱かれている仏教的な東洋哲学と深くかかわっている。 オートマチズムという表現手法は、一方では、第二次大戦前夜のヨーロッパの芸術運動のなかで市民権を得た手法でもある。 それは、フロイトの深層心理学の学説に大きな影響を受けた、アンリ・ミショーなどのシュールレアリストたちによって、人間の無意識の領域にあるものを表出し、解析する手法として登場する。その後、第二次大戦のヨーロッパを逃れてアメリカに渡った、ボルスやゴーキーなどの芸術家たちによって、戦争の狂気によって破滅した自らの根拠をさぐる手だてとして独自な開花をみせていく。 たとえば、ボルスのオートマチズムによる、震えるような、あるいは空間を引っ掻いたような神経的な線は、たしかな像を結ぶことなく、ひりひりと緊張したまま彷徨っている。それはあたかも、戦争がもたらした、人間精神の破壊的暴力によって、ズタズタに引き裂かれた神経回路をつなぎ直す手がかりを探しているかのように見える。 そして、大戦を終えたヨーロッパでは、アンフォルメル絵画(非定形)の運動に結びつく。またアメリカでは、ポロックのオートマチックドリッピングによる大作群を生み、あるいは作曲家ジョン・ケージのチャンスオペレーションとして、手法そのものの自律性を高めながら、今世紀の現代芸術の分野で大きな役割をはたすのである。 しかし、俵氏にとってのオートマチズムは、こうしたヨーロッパ的な発生や展開とは、根本的な異質性を持っている。 彼にとってのオートマチズムは、自己の意識下にあるものを表出させ、自我の拡張をめざすためのものではなく、むしろ逆に自我への執着によってもたらされる限界から己を解き放つ作用として選ばれている。さらに、手法そのものを一つのスタイルとして自律させるような、形式がはらむ限界性とも無縁である。 俵氏の美的世界観は、たとえば「色即是空」「空即是色」という仏教のなかの真理表現と密接なつながりを持っている。彼のそうした世界観は、浄土真宗をとおして仏の世界に帰依していた母の、囚われのない深々とした心に強く影響されている。また、長年、世界各地のプリミチブアートや、東アジアの古美術や民俗美術に深くかかわってきた彼の経歴とも無縁ではない。そうした古今東西の数限りない秀れた美術品との出会いをとおして、俵氏は、人の心を強く打つ秀れた美術品には、共通した原理のようなものが働いていることを発見する。 俵氏によれば、それは、単にその美術品の姿形や色彩などの視覚的具体性から発せられるものではなく、人間の技を超えた、言葉では捉えがたい、一種特別の作用、つまり、人間の目で捉えることのできる三次元の空間とは別の、五感を超えた高次元の場所から侵入してくる波動のような「不思議な力」によるのである。 彼は、その不思議な力の波動にこそ、事物生成の真理がはらまれていて、それはどのような観念にも物質にも左右されない、自在で透明な意識からもたらされているのではないかと考えたのである。そして、仏教的世界観のなかで語られる「曼陀羅」という高次元の三千世界のことが、彼にとって新しい意味を持ちはじめるのである。 この世で偶然とみえるような事柄のすべてが、実は、もっと高次元の世界から見れば、あらゆる事物や生命の輪廻の縁(えにし)によってもたらされた必然であり、また、この世で確かな必然と見えるものも、別の次元から照らし出せば、全き「空」にほかならないという仏教的認識を手がかりに、俵氏は三次元的な認識世界を突き抜けた、広大無辺の世界へと足を踏み入れ、目に視(み)えぬ巨きな意志の働きと導きに、己をゆだねようという希(のぞ)みを抱くのである。 既成の概念を拒否し、人間の五感にもとづく作為や思惟から離れること。なにものにも囚われぬ、心の純粋状態をつくりだすこと。それによって、別の巨きな世界との交感をめざすかのように、俵氏は、密教僧のマントラや念仏行者の唱える「南無阿弥陀仏」の六字名号のかわりに、墨象のオートマチズムを手にした。 偶然性、自動性、非定形性、流動性などを特質とするオートマチズムは、密教僧の瞑想技法のように、俵氏のなかで自分の精神を高次元の真理へ接続するための技法として作用する。 そして、俵氏の手から、まるで念仏行者が念仏を唱えるように、おびただしい数の墨象が産み落とされていくことになった。 それは、すべての始まりであり同時にすべての終わりでもあるという「一」の字のようなものであったり、波立ち騒ぐ漆黒の空間であったり、また、雲のようにも見え仏のようにも見える墨の象であったり、あるいは、森や山や川とも見える波動の重なりであったり、原初的な生きものが踊っているような不思議な空間であったりする。 それは、次から次へと驚くほどの多様な広がりを見せながら、とどまることなく展開していく。 そうしたはてしない行為のなかで、全き無心の状態が招来した瞬間、彼の気息に乗って、何か透明なものが放射される。すると、「紙」という仮の宇宙の中に、森羅万象の目にみえぬ恩寵のようなものが宿り、それは、不思議な美しさをもった磁場の宇宙へと変容するのである。 だから、俵氏の墨象世界は、限りなく深く広い多様体としての高次元の世界の相貌であり、たとえれば、仏教が語る三千世界、無数の仏たちが存在する曼陀羅の宇宙なのである。 それは同時に、人間の欲望や執着という煩悩や業に囚われることのない、人類の未来の叡知のあり方をも語っている。 一九九八年二月三日 堀 愼吉 初出:俵有作作品集Ⅰ『宙(SORA)』(ギャラリー華1998年4月1日発行) |