堀愼吉資料室

発光する物質の魂--長岡國人の大地--

*大地の黙示録
 ながい間、ベルリンを拠点にして表現活動を行ってきた長岡國人の仕事は、銅版画のユニークなテクネにささえられた、大地と人間とのかかわりを示す黙示録として、ヨーロッパ世界で注目を集め、高い評価を得てきた。
 一九六六年、二六才のときに、これといって具体的な目的もなくベルリンに渡った長岡は、ダーレム美術館のレンブラントやゴヤやヘルクレス・セーヘルスという、ヨーロッパ近代を準備した画家たちの仕事に強い衝撃を受ける。
 ヨーロッパの精神世界を構築してきたものの本質を、彼らの仕事をとおしてくみとった長岡は、それを出発点として、表現者としての道に足を踏みだすのである。
 長岡が、当時の表現世界を支配していた尖鋭的な動向とは関わりなく、近代の前夜を生きた芸術家たちの仕事をとおして、人間の精神と知性のはたらきが刻印する世界を受けとめたことは、彼にヨーロッパ的精神世界を正面突破させ、近代という矛盾の総体を突き抜ける道を開かせる機会を与えることになった。
 ダーレム美術館で受けた感動に押されるように、ベルリンで版画アカデミーと美術大学に進んだ長岡は、まずヨーロッパの伝統的な銅版画のテクネに挑戦することになる。彼は、版画アカデミーの全期間中、銅版画の表現支持体である銅版そのものを、ただひたすら磨きつづけたという。
 彼のなかでは当初から、銅版や紙という表現素材は、単に自分のイメージをその上に描くための二次元の表面としてだけあるのではなく、物質的強度と深度をはらんだ厚みと奥行きを持った〈表現の大地〉として意識されていたようだ。〈表現の大地〉としての素材へのこうした深いかかわりと敬意は、その後の仕事にも一貫してみられる態度であり、そのことが彼の作品に強靱な肉体をもたらし、彼の精神世界に深いリアリティを与えているのである。
 一九六九年から七〇年にかけて制作された『Auf-spürungen =探知期』と題された初期の水彩のシリーズに、すでに彼のこうした姿勢が見事に示されている。彼の前に置かれた表面のつるつるした厚手のボール紙は彼にとって、精神が耕し、知性の種をまく大地なのである。その大地の奥深く隠されたものを立ち上がらせ、探知するために、表面は銅版画用のニードルで耕される。紙にくいこんでいく震えるようなニードルの線。物質のエッジとしての紙の表面とニードルのエッジが鋭く交叉して、物質の奥に隠されたものが浮かびあがってくる。耕され、傷つけられた大地に、物質の粒子である色彩が蒔かれる。その行為は、ほとんど本物の大地と人間とのかかわりを思わす。
 長岡の精神の震えるような痕跡によって耕された紙の大地の上に、初源的な生命の空間が生成される。それはシャーレーの中で黴や粘菌が成長していくような生命活動の現場の光景を彷彿とさせるイメージへと結晶されていく。一見、ボルスのオートマチックなイメージとも重なるが、ボルスのように神経的ではない。生命発生の現場を覗きみるように、実に繊細で透明な実存的光景が立ちあがり、そこは美しい微光に包まれている。
 この最初期の水彩シリーズは、その後の彼の仕事の軌跡を見事に予知している。そして、一九七一年から八七年にわたって展開していく銅版画は、『探知期』におけるミクロコスモスな大地の表情から、もっと巨視的な大地の光景として捉えられていくことになる。紙よりも抵抗感の強い銅版の物質的強度は、長岡にもっと意志的で鮮明なイリュージョンへの方向づけを要求してきたのかもしれない。それは同時に、ヨーロッパの精神世界をたどる軌跡にもなっていく。彼によって捉えられた巨視的な大地の表情は、大地に記された人工の痕跡と、大地そのものの持つ自然の強度として立ち現れる。しかも、そのいずれもが、きわめて黙示録的な相貌をともなっている。
 長岡が捉える大地そのものの光景と、大地に記された人工的痕跡の光景とは、それぞれ別のシリーズとして、あるときは並行し、あるときは融合しながら展開していく。たとえば『Dünenlandschaft =砂丘風景』(一九七三年)では、はがれ、めくれあがり、風化した地表の起伏の間に、ただ乾いた草の影のようなものだけがそよいでいる。同じ傾向を示す、一九七六年の『Mu-Dai= 無題』から一九七九年の『Anatomie derLandschaft=風景解剖』への展開をみると、レンブラントやターナーやカスパー・ダビット・フリードリッヒから学びとったテクネが再生され、ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』の背後に描きだした、人間的な感傷の一切を拒絶するような自然の宇宙的光景が大地の初源的な姿として描きだされる。その大地は、あたかも人間のすべての痕跡を呑み込んでしまったかのような起伏をみせて、不思議な微光に包まれながら沈黙のなかで石化している。
 人工的な痕跡を何一つとどめない、これらの大地の光景と並行するように手がけられた『Iseki =遺跡』シリーズ(一九七四~八七年)は、大地の生命力に呑み込まれ、地中深く埋もれていた人工的な構造体の光景として描きだされている。発掘された遺跡の光景は、自然の強度に対する測定を誤った人類の未来を告知するかのようである。白く無機的で人工的な構造体は、かつての人間の栄光を象徴するかのように虚しく白々と輝き、静まりかえっている。その上に、アメーバーのように再び覆いかぶさろうとするかのような生きた大地--この大地のイメージは、浅間山麓に生まれ育った長岡の原風景として、彼の作品の一貫したバックボーンとなっている。ここには、人間と自然と物質とに対する長岡の基本的な視座が示されている。やわな人間主義や、人間の側で語られる環境問題など問題にならない〈冷厳な自然の強度と摂理〉を、長岡は黙示録として示したのである。
 一九八一年から八五年にかけて制作された『Landnarbenplan=地球切開手術計画』というシリーズでは、地上はさらに巨視的に捉えられ、天空から見下ろされたような大地には、人工的な痕跡が見え隠れしている。大地を掘り返し切開して、都市や道路をつくり、地表に無数の傷痕をのこしてきた人間の営為が、波のように重なり押し寄せる大地の襞の中に溶解しようとしている。天空から眺めおろされたその地表は、砂と土と石とがうねるように泡立つ生命体としての大地のリアリティに支配されている。最初期の水彩のシリーズ『探知期』において、紙の大地に長岡の精神の震えの痕跡として記されたものが、この『地球切開手術計画』では、人間の文明の痕跡として巨視的に捉えられている。
 文明という自然から借りてきた人間の物質文化が、その母体の中に還っていくという未来は、それほど遠くない冷厳な事実として、いま私たち人類の前にあるのかもしれない。長岡は、ヨーロッパ世界が生みだした近代文明のロジックの未来を、こうした視座の中で捉え、現代ヨーロッパの表現世界に提出しつづけた。彼のこうした表現の営為は、ヨーロッパで高い評価を得、数多くの国際版画展でグランプリを受賞したのち、その審査員に迎えられるようになっていった。

*脱皮の彼方に
 第二次世界大戦による荒廃は、表現世界の主舞台をヨーロッパからアメリカに移行させ、一九四〇年代から七〇年代にかけて、アメリカ現代美術の華が開いた。しかし、この原動力になったのは、戦禍を逃れてアメリカに亡命してきた西欧や東欧諸国の芸術家たちであった。
 一九六〇年代の終わりごろを境にして、物質文明をささえてきたさまざまな論理やシステムに人々が急速に危機感を強めていくなかで、アメリカ現代美術をささえたエネルギーも、しだいに衰退の兆しをみせるようになっていた。
 そうした状況のもとで、ドイツを中心としたヨーロッパ諸国のごく限られた作家たちの仕事のなかに、少しずつ新しい動向が芽生えはじめてくる。しかもその動向は、はてしなく砕片化していったモダン思想のイズムとしてではなく、人類の未来を賭けた選択として立ち上がろうとしている。すでに、こうした種は一九六〇年代のアメリカのヒッピー文化の高揚のなかで蒔かれていたものであるが、そのときのような体制へのラジカルなエッジとして現れるのではなく、もっと静かに、人間存在の根幹を問いなおす動きとして底流しはじめている。
 ドイツ民族は、第二次世界大戦へのかかわりをとおして、人間の、近代の、悲惨と暗黒を自己の内にもっとも深く抱え込まざるをえなかった。物質文明の中心に集中していく運動性やシステム、物質的欲望を拡張していく価値観、そしてそれに縛られ、支配される人間の観念の恐ろしさをわがこととして体験し、しかも、近代思想が生んだ両極の社会体制(社会主義と資本主義)に分断されたまま、戦後を歩んできた。加害者の負い目を背負って生きた戦後ドイツの精神的ダメージは、ナチズムに蹂躪された被害者としての周辺諸国のそれより、もしかして深かったのかもしれない。
 一九五五年からドイツの都市カッセルで四~五年ごとに開催されてきた『ドクメンタ展』は、もっとも先鋭的な問題意識をもった現代芸術の展覧会として注目をあつめてきた。この国際的なイベントには、ハロルド・ゼーマンなど、ヨーロッパの現代美術の動向を先導してきたキュレイターが企画にたずさわり、芸術と社会の交叉するヴィヴィットな現場としての機能をはたしてきた。
 こうした背景のなかに、ヨーゼフ・ボイス、ヴォルフガング・ライプ、ディルン・アイヒナーなどの仕事が生まれてくる。現代美術の世界に〈社会彫刻〉という理念をかざして神話的存在になったヨーゼフ・ボイス。花粉やミルクや米粒や蜜蝋などを、瞑想的で透明性に富んだインスタレーションとして展開してみせるヴォルフガング・ライプ。オリーブの灰、沼地の泥などを使い、物質の根源的なイメージへとさかのぼるディルン・アイヒナー。彼らの仕事に共通するのは、物質と人間と自然とのかかわりを根源的なところから問いなおしていこうとする態度である。たとえばそれは、ヴォルフガング・ライプの次のような言葉に象徴されている。
 〔花粉は驚異的な色彩を持っています。それは人には絶対出しえない色ですが、花粉は絵の具ではありません。花粉の色というのは、たくさんの性質(花粉にはらまれた)のうちの一つに過ぎません。--(中略)--それは青い絵の具と、空との違いなのです〕(註1)

 ノーベル財団関係の組織の依頼を受けて制作された『日本の六人のノーベル賞受賞者たちへのオマージュ』(一九八六~八七年)を最後に、長岡の仕事は銅版画から離れ、新しい方向に急速な展開をみせはじめる。
 それまでの、表現と素材とモチーフの関係の根本的な組み直しが進められるのである。そのきっかけは、『遺跡』シリーズに登場する、白く発光する人工的な物体のイリュージョンが、実は表現の支持体である紙という自然素材の固有の白色にほかならないという、コロンブスの卵的な認知によってもたらされる。
 その認知は、長岡を自然素材そのものの固有性へと導いていく。それによって「物質的宇宙を、いかに人間的(傍点)にメタモルフォーズして、人間世界の価値のイリュージョンとして現出させるか」という近代までのヨーロッパ芸術の基本理念を長岡は突き抜けてしまうことになる。しかし、そのことは、銅版画のテクネをとおして大地の物質的強度に一貫した関心を寄せてきた彼にとっては、当然の帰結として用意されていたものでもあった。
 近代までのヨーロッパ芸術の基本理念は、とどのつまり、物質的宇宙に対する人間の優位性に基礎づけられている。しかし、こうした理念にもとづいた物質的宇宙と人間との関係は、はたして何をもたらしてきたか。はたして人間は物質的宇宙そのものがはらむ深度に本当の光をあてることができたのだろうか。
 「人間精神が自然や物質的宇宙を超克する」というヨーロッパ的神話にささえられてきた芸術も科学もテクノロジーも、人間の価値を追い求めて、あまりにも人間に重心をかけすぎてきた。この宇宙に実存するどのような存在にも、無用で無意味なものなど何一つない。人間にとって都合のいい事物との関係ではない、もっと本質的で根源的な事物と人間の関係。アニミズムの時代のように〈宇宙=人間〉の関係を取り戻すこと。長岡は〈地球大のシャーマン=ヨーゼフ・ボイス〉にもつながっていく。
 「物質の固有性にそうこと」「物質にはらまれた魂を取り出すこと」「実存そのもののエッジを立ち上がらせる方法を求めること」そうした想いが彼のなかでボルテージをあげていたとき、長岡はアイスランドの美術大学に招かれて、世界有数の火山地帯の大地に出会う。その大地は彼の原風景=〈浅間〉と重なり、むきだしの、生成されたばかりの溶岩に覆われた地表の構造が、地球の巨大なエネルギーの表れとして、彼を捉える。
 そのとき長岡に、版画の初源に向かうもう一つの転機が訪れる。「東洋の伝統的手法 〈拓〉が示しているように、版画はもともと事物の脱皮した姿のたとえではないか……」イリュージョンのテクノロジーとしての版画ではなく、脱皮という事物再生の初源としての〈拓〉への回帰である。
 『Erdhäutung=大地の脱皮』(一九八六年~)は、拓本というきわめてアジア的な手法と、形にしなやかにそって物質の構造を脱皮させるのに適した性質をもった和紙と、アイスランドの大地とが直接的に結びつくことによって生まれた。アイスランドの大地が墨と和紙によって刷りとられ、記録されたのである。大地はイリュージョンとしてではなく、大地そのものの相貌として切りとられ、和紙の上に脱皮する。大地の凹凸にそおうとする和紙のシワと、大地を写しとる墨の濃淡が、大地の厚みを捉えて脱皮する。地表の物質的泡立ちと和紙の柔らかいシワとが、大地の磁気を捉えて美しい光景として立ちあがり、ここにはまぎれもなく〈物質の魂〉がとりだされている。
 こうした〈拓〉への試みをとおして、和紙と墨という東洋的な表現支持体に回帰した長岡は、ちょうど銅版を磨きつづけたときと同じように、紙の構造をさかのぼり、その初源にたちもどろうとする。
 長岡がこの新しい試みに足を踏み入れた時期、私は偶然彼の仕事に出会うことになった。山梨に住む私に、友人の画家・田島征三から電話があった。彼の学生時代からの親友・長岡國人がドイツから一時帰国して山梨の和紙の工房で仕事をしているので訪ねたい。山梨に不案内なので、その工房に連れていってほしい、という依頼であった。田島征三とその工房に長岡を訪ねたとき、彼は、浅間の溶岩や火山灰土など生地の土を集めては、植物の繊維とともに梳きこんでいた。梳きこまれた何十枚かの土と植物との融合体は、大地の記憶の標本として、透明なプラスチックの箱の中に積み重ねられていた。
 そのときの長岡の自然素材との出会いは、やがて『Eingrabungen=埋葬』(一九八七年)や『Erdhäutung=大地の脱皮』(一九八八年~)シリーズとして結実していく。このシリーズには、竹・楮・弁柄・墨・柿渋などというどちらかといえば東洋的においの強いさまざまな物質と、土や軽石という大地につながるものが一体化され、そのなかに人間の文化の断片(たとえば古い和綴じ本の一ページ)がタイムカプセルのように埋葬された。埋め込まれた文化の種子は、大地の循環によっていつの日にか再生されるときがくるのだろうか。こうしたさまざまなアジア的ともいえる物質に立ち会うことによって、長岡のなかに再びアジアの中を流れてきた時間が立ち戻ってくる。
 『Steinhäutung=石の脱皮』(一九九一年~)シリーズでは、時を経た古繭紙(かつて蚕繭の保存や運搬に使われた繭袋で、幾重にも重ね合わせた和紙の上にこんにゃく糊を塗って保存性と強度をもたせたもの) の断片の襞の上から、土や墨や柿渋が擦り込まれ、物質そのものにこめられた色彩が、そのものの時間と深度をともなって再生されている。柿渋は中世以来、賤民の身にまとわれた〈日本土民の色〉なのである。大地の色と、アジアの基層の人々の色とが彼のなかでよみがえる。擦り込まれた物質によって触覚値を高められた紙の断片は貼り合わされ、新しい関係性のなかに整合されて、物質そのものの美しい言葉を語りだす。それはほとんど、アジアやアフリカの未開の民が祈りをこめて、泥や灰や植物の樹液や血を擦り込んだ〈魔除けの楯〉のように、物質の深い働きを発光させながら、現代のわれわれの眼前に現出してくるのである。

 人間の思惟やイメージを一方的に刻印するのではなく、人間と、人間がかかわる物質を等価に位置づけ、すべての生命活動の支持体である大地とさまざまな物質世界が語る言葉を立ちあげる作業--その長岡の新しい旅は、始まったばかりである。にもかかわらず、宇宙的時間を生きる〈大地〉は長岡のなかでひとつらなりのものとなり、ヨーロッパやアジアの大地にこもる霊性が、彼を新しい世界へと導いていく。
 自己と宇宙の中にあるものをがっちりとつかみ、〔「深いけれども静かな祭り」を一人一人がやろうとする〕(註2)次の時代が扉を開けようとしているのだ。
                   
                 一九九二年九月一八日 堀 愼吉

註1 -『Light Seed』展(一九九〇年一二月~一九九二年二月・ワタリウム)カタログより
註2 -『ヨーゼフ・ボイス-国境を超えユーラシアへ』(発行=ワタリウム)上田紀行論文「地球大シャーマン」より
参考資料-『NAGAOKA 1969-1987作品集(テキスト「マリーナ・ディングラー」』(Kunstamt Berlin-Tempelhof 発行)


初出:Art'92冬号(マリア書房1992年12月26日発行)
再録:長岡國人作品集(ギャラリー無有1993年1月30日発行)/KUNITO NAGAOKA WORKS 1969-2010「軌跡」図録(あさご芸術の森美術館2011年3月13日発行)


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