堀愼吉資料室

 ヒューマン・ミニマリズム私論
--魂のスーベニール=栗田宏一の世界--

 最近になってはじめて、私は、モダニズムとそれをささえてきた文明的な文脈の表現基盤を脱却しつつある表現のこころみにであう機会をえた。
 近代以来、表現活動のベースは、創造的な個我の拡張によってもたらされる新しい普遍性の追求におかれ、さまざまなこころみがその軌道上でおこなわれてきた。
 一九世紀から現代にいたるまでのさまざまな視覚的冒険--モネやセザンヌからフォービズムやキュビズムにいたる流れ、そこからさらにモンドリアンやマレービッチを経て、六〇年代後半のミニマリズムやコンセプチュアルアートにいたる流れは、人間の内なる可能性の発見という命題にそった革新の道程であった。こうした表現活動の基盤の限界がしだいに明らかになり、終局的な展開をみせはじめたのが、六〇年代の芸術シーンであった。
 キャンベルスープの缶やコカコーラ、あるいはマリリン・モンローなどのマスイメージの表層を増幅生産して、アメリカンポップの代表となったアンディー・ウォーホールは、この時代を、「すべての人々が芸術家になる時代」と呼んだ。この言葉に象徴されるように、すでに普遍への冒険は、個我そのものに同化しようとしていた。
 また、視覚に対する冒険は、「視覚的表現あるいは造形的空間表現のすべては、人間の視覚それ自体にはらまれた身体的制度の顕現にほかならない。こうした視覚的基盤の解体なくして、もはや新しい表現の普遍性はありえない」という、視覚表現のベースになってきたものを、根底からくつがえすような認識を生むところまでたどりついてしまっていた。
 私はこうした六〇年代美術のさまざまなシーンを表現者として歩くことによって、人間の内なる本能の働きによってもたらされてきた人間的創造行為そのものに、根源的な疑念を抱くようになった。
 六〇年代以後、ポスト・モダンへの道がさまざまなアプローチで模索され、同時に、表現に内在してきた文明的進化論の文脈の問いなおしもおこなわれてきた。しかし、それにもかかわらず、ごく最近になるまで、六〇年代に我々が追いつめられた結論を修辞し、なぞっている以上のものを目にすることができなかった。
 いまになってみれば、ものをつくり創造するという人間的行為は、たしかに人間にとっても両刃の剣で、文明の進歩とその結果によってもたらされた深刻な矛盾が、私たちの前に立ちはだかっている。しかし、高度経済成長への道をまっしぐらにつっ走っていた当時の日本のなかで、風船のように肥大していった自我の欲望がどのような空虚をもたらすかということを、観念としてではなく現実として受けとめ、自覚した表現者がどれだけいただろうか。
 万博という巨大な国家的空虚へとなだれをうって参画した、六〇年代美術の代表的な前衛芸術家たちの姿によって、近代も現代も、彼らにとっては自我の欲望のただの修辞でしかなかったことを証明したにすぎなかったのではなかったろうか。
        
 六〇年代以後、私のなかには秘かに人間的な創造本能を基盤にしない〈ヒューマン・ミニマリズム〉とでもいうような、新しい価値形成への関心がめばえていた。
 私のなかで夢想された〈ヒューマン・ミニマリズム〉は、「人間にとって、それが何であるか」という人間的欲望から発した目的性や価値基準や視点からの離脱を模索することであり、それによってみえてくるかもしれない〈なにか〉、人間の物質や自然への働きかけ方の根源的な改変へとつながる〈なにか〉をさがすことである。つまり、私にとっての〈ヒューマン・ミニマリズム〉は、人類の何千年かの文明史の巨大な流れとは別の、〈新しい水源〉を見いだすためのスタンディングポイントにあたるものである。
 身近なたとえでいうなら、人間の視覚的快感という欲望のために、かぎりなく人為的な改良を加えられていく栽培品種のバラやカーネーションに付加された価値観を捨て去ることであり、そこから、普段は目にとめることもないありふれた小さな草花に感応し、共振する感受性や人間的能力に価値観の重心を移行させていこうとすることなのである。それは、人間の内なる欲望の拡張にではなく、外界のありのままの価値に深くめざめることによってえられるかもしれない〈新しい生き方〉を模索することにつながっていく。
 そうしたありようが人類にとってたとえ夢物語であろうと、文明的虚構を解体し、人間の本能や欲望を洗いなおし位置づけなおして、いま一度、生きものとしての人間の価値を問いなおすことをしないかぎり、人類は存在する価値さえない生きものになりさがるばかりだ。
       
 このような私の関心に重なる三人の表現者の仕事に、このところたて続けに出逢う幸運にめぐまれた。私が自己解体を余儀なくされた六〇年代以後にはじめてみる、まったく新しい基盤から出発している表現行為だった。それは、荒廃しきった人間精神のなかに、新しい〈なにか〉がめばえはじめているという予感と希望を私に与えてくれるものでもあった。
 そのなかの一人は、先年、国立近代美術館で開かれた『ドイツ現代美術展』に参加していたヴォルフガング・ライプである。彼の仕事は、今年、ハロルド・ゼーマンが企画したワタリウムでの展覧会でも紹介された。
 彼の仕事を代表するものに、採取した花粉を円錐形に積み上げただけの、マンダラを思わすようなものがある。一九五〇年生まれの彼は、医学を修めた後、一九七五年ごろから、こうした仕事をはじめるようになったようだ。ニューヨークと極東への旅を経験している彼は、極東への旅のなかで、現代の自然科学が抱える矛盾を救済する光に出会ったのかもしれない。
 もう一人、マリオ・ライスという作家も、一九五三年生まれのドイツの作家である。ライプとライスの間に作家としての交流があるのかどうかはわからない。
 彼は、アフリカ、カナダ、ヨーロッパなど二〇数ヶ国をめぐり歩きながら、それぞれの土地を流れる河や、あるいは沼などにキャンバスを沈めて、キャンバス上に漂着する泥や藻などを採集定着する仕事をしている。また、目隠しをして描くオートマチックなドローイングの仕事も並行しておこなっている。彼も昨年来日して、日本各地の河川や温泉などをめぐって、自然そのものが描くオートマチックな世界を採集していった。
 そして、もう一人が、ここで紹介する栗田宏一である。
 彼は一九六二年に山梨県で生まれている。山梨に設立された宝飾専門学校の第一期生として研磨技術を習得した後、研究科を終了している。この学校の研究科に在籍するころから、彼はしだいに何気ない石のなかにこもるものにひかれはじめていったようだ。虚飾の装身具ではない、魂のオブジェとしての装身具、勾玉などの始源の装身具へと急速に関心を傾斜させていった。そして、彼のこうした関心は、人間の身体を、大地のなかの石ころと同じ一つのオブジェととらえるパーフォーマンスへと発展していく。
 大地と身体と身につけたオブジェとが、それぞれにたまごもるものとして出会い、光芒を放つ瞬間をとらえるために、そのパーフォーマンスはおこなわれる。巨木の立つ、深い森の中でおこなわれた「Being on the Earth 」と名付けられた彼の最初のパーフォーマンスは、「自然な出会いだけを撮りたい」というカメラマン青柳茂との共同作業としておこなわれ、青柳茂によって記録された。
 また、一九八六年から八七年にわたって、逗子の海岸で連続的におこなわれた「椰子の実」「旅の途中のひとつの街」と名付けられたパーフォーマンスには、逗子に住むドイツの作家、イングリット・ホイサーなどが協力している。
 イングリット・ホイサーは、逗子の海岸に漂着するものを使った、呪術性の強いプリミチーフな力をもったオブジェをつくっている作家である。彼女の作品を特徴づけているプリミチビズムと、たとえば、タパの樹皮を叩きなめした上に描かれたピグミーの線描などのアフリカン・プリミチビズムに触発されて出発したポール・クレーなどの仕事をくらべてみると、前者からは、もっと〈なにか〉が進行してしまった時代に生きる作家の深い悩みが伝わってくる。彼女は、この時代の巫女になって、魂のお守りとしてのオブジェをつくり続けている。栗田宏一の逗子海岸のパーフォーマンスは、このイングリット・ホイサーの依代のようなオブジェックな装置を背景におこなわれたのである。
 中世の黒い陶器、珠洲焼きの陶片に触発されてつくっているという、「睘」と名付けられた栗田宏一の制作になるオブジェも、銀環を黒く焼いただけのもので、虚飾をはねつける黒い肌をもっている。その肌は、さながら光悦茶碗や長次郎の黒茶碗を思わせる。
 私が、栗田宏一の資質と世界観をもっとも明瞭にしめすものとして、またライプやライスと同じ方向をもったものとしてひきつけられたのは、まだ発表されたことのない、おびただしい小石や砂などの採集物であった。
 彼は、この四~五年の間、半分ちかくをアジアや中近東、エジプトやギリシャなどの旅のなかで過ごしている。彼にとって、その旅自体がパーフォーマンスであり、自分の生と、地球という大地の広がりと、アジア的精神空間を重ね合わせる行為だったようだ。
 彼は、その旅の途次で訪れた場所で出会った小石を拾いあげる。また、大地から砂つぶをひとつまみもらって、観光ハガキの表にセロテープで封じ込めて、山梨の生家の自分宛に発送する。
 旅をする国々の大地のなかに凝縮されたさまざまな自然や事物の重み、人間の死生。そこをめぐり歩く彼のあてどない生が、足元に転がる小石や砂つぶに感応する。
 インダス河のほとりやメコン河で拾った小石たち。釈迦がさとりをひらいたブッダガヤの菩提樹の下の小石たち。あるいはチベット高原やパミール高原を歩く彼の靴底にはまりこんで、彼の歩みと重なりあった小石たち。彼は、それらの小石たちや砂を、大地からの恩物として拾いあげる。
 〈石に神が宿る〉という心意伝承は世界各地に残り、石の霊力にまつわるさまざまな伝承がわが国にも色濃く残されている。とりわけ、彼の生地である山梨は、縄文時代から伝わる不思議な神石〈丸石神〉がいまなおいたるところに祀られている土地である。
 石を拾うという行為について、早川孝太郎氏の興味深い記述がある。それによれば、イタコになろうとするある女性が浜辺に出て、たまたま一つのある形をそなえた石を発見して拾うと、彼女はその時から本物のイタコになるという。彼女は、その石の中に何かの姿を見つけて拾い上げるわけだが、その石に遭遇すると同時に、唯物ではないとする自覚があり、石を手にしたつぎの瞬間から、精神上にも異常な波動が起こるのだという。
 「石を得たことが村人に知れれば、もう立派なイタコになったわけで、これをカミサマになったという。石を授かれば同時にカミサマになるとの思想を村一般に持ち合わせていた。……」
 石との具体的な交感が、このような形でわが国にも残されてきたのである。その時の石は、決して人の手の加わったものではなかった。ちなみに、折口信夫によれば、石の霊力の良いはたらきを「カミ」といい、悪いはたらきを「モノ」といったのだという。私たちは、あまりにも「モノ」に囲まれてしまったのだ。
 栗田宏一が旅の途次に出会って拾いあげた小石たちは、いずれも掌に握りしめて何事かを祈りたくなる形をしている。どんな現代彫刻のかたちも、これらの小石の形に遠くおよばぬことを、もう一度私たちは深く思い知るべきだろう。
 栗田宏一やヴォルフガング・ライプやマリオ・ライスの仕事に共通しているのは、人為的な造形や事物に対する人工的な暴力からできるかぎり遠ざかろうとする姿勢だ。彼らはそのように自我の彼方へ旅立とうとする。その旅の途次に出会う、あるがままの外界の事象のなかから拾い集められたものたちが、彼らの新しい思想と魂のありかを伝えてくれる。私たちが、どこへ行こうとしている生きものなのかを伝える。
 彼らは、事物のなかに閉じ込められた 「タマ」と「カミ」のはたらきを呼びもどすために、人間の始原へと遡行する遊行者なのである。
                  (一九九一年九月八日)
       *   *
郷愁を背負いて夏の行者かな
   (クチャにて 一九八八年五月一五日)
天井に地獄絵のあり熱の宿
  (ペシャワールにて 一九八八年七月一日)
白い花が放つ光に心を開くこと
草の呼吸に日の出を感じること
石ひとつひとつの語りかけを待つこと
風の匂いにもうひとつの故郷を想うこと
永遠の光に感謝すること
     (レーにて 一九八八年八月二五日)
栗田宏一著 私家本『旅の途中のひとつの街』より抜粋

       堀愼吉 初出:Art'91秋号(マリア書房1991年10月31日発行)

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